仙台支部誕生までの経緯(昭和23年~昭和33年)

○仙台支部誕生までの経緯(昭和23年~昭和33年)  

1、仙台支部誕生までの経緯 (昭和23年~昭和33年)

宮城県に初めて法の種が蒔かれたのは昭和23年仙台市の鈴木八千代さんでした。その後、角田、岩沼、桃生と続き、下馬、白石、岩切、大代、丸森名取、七ヶ浜、中新田、栗駒の各地域に広まっていきました。
この頃の教団組織は導きの親子関係を主軸とした縦系となっており、在京の支部は第一支部というように数字支部になっていました。昭和33年頃には仙台地区に20を越す数字支部系統の会員がおりました。

昭和23年(1948年)6月   鈴木八千代 入会(62支部)
         7月29日 斉藤米吉 入会(仙台市 38支部)
         11月   笹森優恵 入会(角田町 19支部)導き親 松木恵津予
昭和27年(1952年)4月 松木教雄 入会(河南町 9支部)導き親 及川育子

昭和27年入会の松木さんは家業の農業を妻や姑にまかせ東京の本部まで行き信仰を深めました。松木さんは在京幹部の間で「宮城県で一所懸命に信仰している人」と噂になり、時として第九支部以外の総戒名の祀り込みを依頼されるほどでした。
そして、在京幹部さんのご指導に従って宮城県内をオートバイでくまなく走り回り、他の支部の和地さん、谷村さんや山崎さん、志賀野さんと交流を持つようになりました。

昭和23年入会の笹森優恵さんのご息子克典さんの回想
「教会発足50周年を迎え、一昨年亡くなった母の信仰生活が思い出されました。母は昭和23年東京・渋谷の親戚の人に導かれ19支部に所属しました。当時は導きの親子関係で、導きをすると東京へ行き幹部さんが来てお祀り込みをします。幹部さんが帰る時は又新しい導きをさせて頂き東京に行く。その繰り返しで本部通いが続くと生活の苦しい我家では汽車賃を捻出するのも大変でした。母は佼成会の教えを実践すれば幸せになれると信じきっていました。仙台に道場ができると毎日のように通っては布教に歩きました。現在のように車もなく交通の便も悪くバスと歩きだけです。地元角田をはじめ白石・亘理・丸森と会員さんの手取りで下駄はすぐにすり減り、買う余裕などなかったそうです。父も1ヶ月程本部で修行すると母と一緒に手取り導きと歩き、法座や宿直当番にも進んで参加し、幸せな家庭を築くことができました。母は以前にも増してまず人さまと困っている人がいると「ありがたい、ありがたい」と昼夜を問わずとんで行きます。始めは、佼成会に反対していた私でしたが、母の後姿を通して青年部活動に参加するようになり青年部支部部長のお役を頂き、母と同じように毎日手取りに歩き、部員さんの喜びや幸せが自分の喜びや幸せと感じる事ができました。母もそんな思いで只ひたすら菩薩行を実践されたのだと思います。」

角田支部 堀米 身知子さんの体験
「昭和23年、西根の地に東京から来て立正佼成会の法の種が蒔かれました。戦争中の生活なので皆様も大変でした。そんな時に心のよりどころとして、皆様も何か求めていたと思います。皆様も一生懸命に信仰にすがっておりました。お互いに振り返ってみれば色々ありました。その当時、私の家では次から次へと病気のどん底の生活でした。その時、佼成会のお導きを頂きました。昔、東京の本部に汽車で行きました。その時、自分の悩みや苦しみをを本部に行って教えて頂き、家に帰って来て教えて頂いた事を一つ一つ実行させて頂きました。現在では、昔のような暗い生活から明るい生活に変わらせて頂きました。昨年は、ご法号の勧請を頂きました。自灯明・法灯明を胸にひめて毎日のご供養をさせて頂いています。より一層精進し、自分の見方考え方を仏さまの教えに照し合せて、生活に生かし教えを実行して行きたいと思います。」

昭和28年(1953年)7月  阿部恭子 入会(渡波町 57支部)導き親 落合教雄
昭和29年         山崎俊男 入会(仙台市 茨城支部) 導き親 杉田サト
         5月  谷村典孝 入会(仙台市 33支部)導き親 久水康江
昭和30年     11月  和地淑恵 入会(仙台市 49支部)導き親 石垣某
昭和31年        志賀野充代 入会(仙台市 茨城支部)導き親 鈴木秀太郎
                   若杉よしえ 入会(仙台市 茨城支部)導き親 鈴木秀太郎
昭和32年(1957)年  法座所に伊藤文吉宅借用              
         3月24日 本部布教班を招き大会開催  味噌醤油会館 四百名参集
          (原口昌子第9支部長 石塚益弘第2支部幹部)
        
宮城県内の会員が連帯感を強めたのが本部布教班による布教でした。昭和32年の第1回布教に訪れた原口昌子第九支部長は次のように本部への布教報告を行っています。「この地区は連絡所ではありません。しかも今回が初布教です。法座所は第33支部
の伊藤文吉氏宅を使用させて頂きましたが、信者は非常に求めておりまして、所属会員218名に対して他支部の方もかけつけまして400名という好集合でありました。この地区には試みの布教でありましたが、信者は非常に喜びまして、この布教を異状の感激をもって迎えておりました」本部布教班は昭和33年の仙台準連絡所発足に至るまで度々仙台を訪れました。そして在京の数字支部系統の幹部さんは連絡所発足に必要な500世帯を達成するために互いに競って仙台市やその周辺を訪れて、自らの系統の教勢の拡大に努めました。宮城県における教勢は、こうして昭和32年の1541世帯が33年には2413世帯に増加しました。教勢の増加に伴い宮城県内でもようやく和地章雄さん、谷村典孝さん、松木教雄さん、志賀野充代さんになどに曼荼羅が本部によって勧請され、宮城県における佼成会の幹部へと成長していきました。

昭和32年9月10日 妙佼先生が遷化(67歳)

昭和33年(1958年)3月 秋葉身知子 入会(石巻市 45支部) 導き親 三上ふみ
          6月 仙台地区布教大会開催(仙台市公会堂 1500人参集)

宮城県内の連絡所発足にむけての努力は、宮城県の幹部の活躍により一層の連帯感を強めることになりました。昭和33年に仙台市公会堂で行われた仙台地区布教大会には20支部、1500人の会員が参集して互いの存在を確かめ合い結束をかためました。指導にあたった石井君枝第22支部長は、宮城県の会員について「支部単位の狭い気持ちを捨てて、連絡所中心になって和になって精進していけば、将来発展する見込みがある」と本部に報告しています。
                         6月20日 仙台準連絡所発足(主任 和地章雄)遠藤正之助宅の2階を借用

大会の興奮さめやらぬ同年6月20日に仙台準連絡所が発足し、主任には和地章雄さんが就任しました。和地さんは家業の旅館業を妻にまかせ、仙台周辺に住む30以上もの支部系統会員のリーダーの役割を果たすことになります。
                         7月20日 仙台準連絡所に大曼荼羅鎮座式挙行

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