“仏性に気づいた分、「違い」が尊く感じる” 教会長 近藤雅則(令和元年9月)
- 2019/9/1
- 心を創る
今月の会長法話は、「違い」があるからこそがテーマ。
「人はみな心の根底において、この世に存在するすべてのものを愛おしいと感じ、慈しんでいる」と書かれています。この尊い心を“仏性”と言い換えてもいいのではないでしょうか。しかし、私たちはそうした尊い心(仏性)の存在に気づけないでいます。その結果、自信がもてず、不安がつきまとい、前向きに生きることができないように感じます。
法華経の「薬草諭品」に、“三草二木の譬え(薬草の譬え)”が描かれています。この世界には、大小さまざまな草や木があって不平等のように見えるが、みな一様に雨を受け、成長しているという面においては平等だという内容です。形、性質、大小など表面上の違いはあるが、そこに優劣はなく、すべて尊い存在だという趣旨の譬え話です。まさに「世界に一つだけの花」であって、みなオンリーワンの尊い存在であることを言い表しています。
私は若いころ、この“三草二木の譬え”がとても苦手でした。それぞれがみな尊い存在という趣旨ですが、自分が小さな草で、価値の低い、つまらない存在のように感じ、卑屈感に悩まされていました。
なぜそのように感じていたのか。その原因は、表面的な違い(差別相)のみを見て、いのち本質的である仏性の存在(平等相)が自覚できていなかったからだと思い当たりました。仏の智慧とは、ものごとの差別相と平等相の両面を見ることだと言われます。その両面を見ることによって、心底自信をもち、前向きに生きていくことができるようになると思うのです。
日本社会では“同じ”であることを求めすぎ、“異なる”ことを認めない風潮があります。学校の運動会(徒競走)において、みんな手をつないでいっしょにゴールする。足の遅い子どもを傷つけないための配慮だそうです。一見優しい配慮のように感じますが、なにか変な気もします。
運動の得意な子、勉強の得意な子、音楽の得意な子、心の優しい子、みなそれぞれの持ち味や才能があり、それらをイキイキと発揮していくことが大切ではないでしょうか。個々の違いを認めないのは、表面的な差別相のみにとらわれ、本質的ないのちの平等相の両面を見る智慧が欠如していることが原因であるかもしれません。
互いの違いを強く感じるのは身近な家族、特に夫婦かもしれません。夫婦は結婚して年数がたつにつれ、理解できる面が増えてきます。ところが、何年たっても、違いがよりはっきりしてきて、絶対に理解できない面もあるように思います。それが言い争いの原因になるのです。
ところが、最近、その違いが少し愛おしく感じるようになってきました。「自分にないものをもっていて、素晴らしいな」と感じるときがあるのです。それも、誰もがみな仏性をもった存在だという平等相を見るようになってきたからだと感じます。仏性の存在に気づいた分、「違い」が尊く感じるのです。
2019年9月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則