【特別寄稿4】生死を見つめて―臨床宗教の視点から―第1回 谷山洋三(東北大学 准教授)

 実践宗教学の先駆者のお一人であり、東北大学准教授であられます谷山洋三先生に、今回から3回連続で「生死を見つめて―臨床宗教の視点から―」というテーマでご執筆いただきます。

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◇日本人の伝統の断絶
 
人間にとって「生死」というものは一大事ですが、積極的に関心を示す人は少ないでしょう。しかし近年は、「終活」が取り沙汰されているように、関心をもつ人が増えているようです。終活においても、家族や親しい人との間で相談をすることが求められますが、実際に最期の時を迎える前には、さらに密なる心の交流が必要です。
「畳の上で死にたい」という言葉があるように、私たちの日本人の理想的な死に方として、自分の家で家族や親戚、友人、ご近所の人たちに見守られ、また看取られながら死を迎えることを理想としてきました。ところが、日本のそういった伝統が、科学とりわけ医療の飛躍的な進歩によって、失われつつあります。いわば、医療の進歩によって、人の「死」が遠くなってしまったのです。
 国家の医療制度の恩恵で、「国民皆保険」という制度のもと、誰でも少ないお金で病院にかかることができます。これは世界に誇るべき素晴らしい制度です。その一方で、「病気になれば病院に行けばいい。病院に行けば病気が治る」という神話ができあがってしまいました。しかし、世の中には治る病気と治らない病気があります。そして、人間だけでなくあらゆる生き物は必ず死を迎えます。人は必ず死ぬという、当たり前の事実が忘れられ、なおかつ、その死のほとんどが病院の中で訪れるということが現実です。今や日本人の8割が病院で死を迎えます。
 病院で死を迎える前には、ごく近しい家族だけが立ち会います。少し遠くの親戚やご近所の方、さらに友人たちは、死に目に会うことはほとんどありません。亡くなる数週間前に会うことができれば幸運だと言えるでしょう。
「畳の上で、家族や親戚、友人に看取られながら死を迎える」という日本人が培ってきた伝統が途絶えようとしています。
 ただし、厚生労働省は、多死社会を迎えようとしている今、「病院死から在宅死へ」と舵を切り、在宅死を4割に増加させようとしています。特に仙台は在宅ケアの先進地域で、2割近くが在宅で死を迎えています。新しい伝統が作り出されようとしています。 

◇医療現場は「死」を遠ざける場所
 私がかつて「ビハーラ」(注1)で働いているときの、そこで見聞きし、体験した印象ですが、現代社会のほとんどの人が人の死を看取ったことがないので、例えば、ごく身近な人の死に直面したとき、非常に慌ててしましまいます。死そのものを受け入れられない人もいます。かつて人の死を看取ったことのある人は、落ち着いていますが、そういう人はほとんどいなくなってきています。
 そのような意味では、人の死を一番見ている人というのは、看護師さんかもしれません。しかし、看護師さんというのは死を看取る役=仕事ではありません。逆に人を死から遠ざけて病気から救うのが本来の仕事です。ですから、人の死に直面してきた経験はあるけれど、それらの死の姿は(緩和ケアの経験がある一部の方々を除いて)、「病気と闘ったあげくの敗北の死」であり、人間として自然な亡くなり方ではありません。本来、死は敗北ではなく、自然なことなのですが、どうしても消極的なイメージで捉えられてしまいます。

◇二つのケアの存在
 人は必ず死にます。私たち日本人は、東日本大震災の発生によってようやくこの「人は必ず死ぬ」ということを嫌でも思い知らされました。
 %e3%82%af%e3%83%ad%e3%82%b9%e3%80%80%e6%b1%ba%e5%ae%9a仏教やキリスト教など、およそ信仰を深く持っている人にとっては「死」というものは極めて当たり前のことでしょう。ところが多くの現代人は死を見ないようにしてきました。死という人間にとって最も恐ろしいことにはふれたくないし、ふれる場面もなくなり、また深く考える機会もありませんでした。ところが、5年前の東日本大震災で多くの人が亡くなられました。
 そして、さまざまな理由や事情はあったかとは思いますが、震災直後にその現場に居合わせた人、また震災直後に駆けつけた人など、多くの人がご遺体を見ました。
 見たくないけど、逃げていく途中で見ている。あるいは、行方不明になられている人を探すために、たくさんのご遺体を見たくないけど見てきてしまった人もたくさんおられたかと思います。そういう特殊な経験をすると何か死について考えざるをえない。そしてまた、震災の現場で慰霊の祈り、儀式をしている宗教者の弔いにも何か意味があるのではないかという思いを、たぶん多くの人が持たれたのではないかと思います。
 実際には亡くなられた人を前にしたケア、死にゆく人のケアと二つ考えられると思います。言い換えれば、死を迎えてしまったあとと、死を迎える前の2通りです。
 私は浄土真宗の寺の三男として生まれ、僧籍も持っておりますが、お坊さんというのは亡くなった人を弔っていくのが役割だと一般的に思われています。しかし、よく見てみると実はお坊さんは遺族に関わっています。生きている遺族に関わっている。場面としては人が死んだあとですけれども、本当は生きている人に関わっていく仕事なんです。亡くなっていく人というか、死を目の前にしている人との関わりです。
 人は亡くなる前の段階というのは、たいがい多くの人は苦しみます。肉体的にも精神的にも。ですから、お坊さんや他の宗教者が亡くなっていく人に何らかの関わりを持つということは、非常に大切なことだと思います。
 その時、その人に関わり、ケアをする側の人の一番よくないパターンは、その患者さんがまだ生きているのにも関わらず、死人にしてしまうことです。「近いうちに、この人は死ぬんだから」というレッテルを貼ってしまうことですね。しかし、今、まだ生きているんですよ。現実にまだこの瞬間生きている人として関われるかどうかが、とても大切なんです。
 と同時に、「自分も必ず遅かれ、早かれ、そのうち死ぬんだ」ということをわかっているかどうかも問われます。死を前にして、今、あなたは死ぬ人、自分もやがては死ぬ人。その意識があるから人間関係も築ける。
 ところが、「あなたは死ぬ人、私は生きる人」では、より良い人間関係性は築けない。確かにあなたはこのままいけば、まもなく亡くなるけど、実は一寸先は闇ではないけど「私もいつ死ぬかわからない」という心構えが本当は必要なんです。死にゆく人を前にした時、たまたま今、二人とも生きている。だけど、二人とも必ず死ぬ。その真理に真正面から向き合うことが大切です。
 まぁ、そういってしまうと簡単ですけど、なかなかそうは思えない。私もそうですが、人というものは明日も生きていると思い込んでいる。そして、実際に余命の告知を受けた人にたいしては、この人は死ぬ人というふうにみてしまう。ところが、結構長生きする人がいる。私たちは固定観念に縛られてしまっているんですね。

◇僧侶の一つの現状として
 仏教の僧侶でも、キリスト教の神父さんや牧師さんも、神道の神職さんも、現代ではもう今のままとどまっているわけにはいかない。一般の人よりも「それなりの死生観を持っているだろう」という期待を持たれていますからね。
 %e8%a6%b3%e9%9f%b3%e3%81%95%e3%81%be%e3%81%ae%e6%89%8b%ef%bc%88%e6%b1%ba%e5%ae%9a%ef%bc%89いざ、人が亡くなろうとしている、また亡くなったあと落ち着いた対応をしてくれるだろうと宗教者に期待している。ところが、実際はあいまいなところがあるんです。特に亡くなる直前ということになると、宗教者自身もあまり経験してないのでわからない。残念ながら、私も含めて社会や公共空間の中で、少なくとも仏教の世界では宗教者としてどのようにふるまっていいのかということがわかっていないことが、現状として多々あります。
 例えば、病院に行くときに、お坊さんが衣を着ていっていいかどうかということが、実際に仏教界では議論になることがあります。しかし、そのことを決めるのは病院側なのです。病院としては、どちらかといえば、「お坊さんが衣を着てくると死をイメージするからやめてください」となる。
 ところが、尼さんやキリスト教のシスターさんに対しては、(たぶんこれしか着るものがないだろうなと思うから)許される場面が多いのです。尼さんの場合は女性でありながら剃髪をしています。一般の人にとって、これはかなりのインパクトがあることです。また、シスターさんの場合は、厳しい戒律がある「修道院」で生活をしているといったイメージが定着しています。
 お坊さんがどうしても法衣を着て病院に行きたいなら、私服を捨てるしかない。つまり、「戒律」を守るということが大切になってくるんです。逆に「戒律」を守れないのだったら、恰好なんかどうでもいいじゃないですかと私は思います。〈色即是空、空即是色〉です。『般若心経』には形、言葉にこだわるなと書いてあります。また、実際の戒律(律蔵)をよく読むと、お釈迦様とそのお弟子さんたちが、社会にたいして方便で対応している姿が現されています。病院とは、つまりお寺の外の社会のことですから、法衣を着る、着ないといった、こだわりは必要ないと思います。
 何を持って人は人を尊敬するのか?着ているものではないでしょう。中身、人格、経験にたいして敬意を表すのではないでしょうか。例えば、あるお坊さんが自分の友達の同級生が勤める法事に行ったとします。その法事の場ではその友達のお坊さんを丁重に扱う。しかし、それは立場に対しての敬意であって、その人に対してのものではない。一緒に国分町に飲みにいったらため口ですよ。
 私が言いたいことは、僧侶は世間一般の人たちの視点に立って自分たちを見直した方がいいのではないかということです。ましてや、病院や公務員の方の眼は厳しい。病院は「死」をイメージさせるお坊さんに対して、とても敏感です。公務員の方は、政教分離の原則によって仕事をしています。特定の教団に利益を持たせない。仕事上、仕方ない。
 では私たち宗教者は、どうして行ったらいいかを考えるということが大切です。

(次回に続く)

(注1)ビハーラ
サンスクリット語で僧院、寺院あるいは安住・休養の場所を意味し、現代では末期患者に対する仏教ホスピス、または苦痛緩和と癒しの支援活動を差す。また、狭義・広義・最広義の3つのカテゴリーにまとめてビハーラを定義すると、狭義とは「仏教を基盤とした終末期医療とその施設」であり、広義とは「老病死を対象とした、医療及び社会福祉領域での仏教者による活動及びその施設」をさし、最広義とは「災害援助、青少年育成、文化事業などいのちを支える、またはいのちについての思索の機会を提供する仏教者を主体とした社会活動」といえる。

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