漁師として生きる〜人生の荒波の中でつかんだ大切な心 山田恵子(白石支部)
- 2016/11/29
- 青年が創る
私は子供の頃から病気がちでさまざまな病気で入院や手術をしてきました。それに加え性格も人見知りでどん臭く、学校でもいじめられ、家庭においても母が難病をかかえていました。父には怒鳴られ、祖父には虐待を受け、
「私自身生きていても良いことなんてない。死んだ方がましだ」
と思い、「遺書」を書き自殺の方法を考えていたこともありました。
母もまた自身の病気のことや私のことで舅さん、姑さんのことで悩み、
「二人で一緒に心中しようか」
と言った母の言葉は、子供心にとても切実に重く、今も思い出すと胸が苦しくなります。
そのような中、母に連れられて福島の佼成会の教会に何度か参拝に行き、ご指導を頂いて帰って来る時は、何となく晴れやかな顔になっていたような気がしました。私自身は、自分の思いを口に出して言えない子供でしたので、心の中ではいつも、「何でこんな家に生れてきたんだろう。何でこんな親や家族なんだろう」
と思い、学校でも孤独、家でも居場所が見つけられずにいました。
月日が経ち中学生になり、環境の変化と心の変化がありました。私自身は少し積極的になり、周囲との調和がとれるようになってきました。その頃、母は何度目かの入院をしていて、お医者さんからは、
「最後の入院になるかもしれない」と宣告されていました。
私は自分がもっと変われば母も元気になってくれると信じ、これまでの思いを綴った作文をある全国コンクールに応募することにしました。母の思いと私自身の願いを込めた作品は見事に入選し、賞を頂くことができました。しかし、無情にも母の容態は快方に向かうことはなく、私が賞状を授与された日に、母は天国に旅立ってしまいました。本当に悲しくて、悲しくて、悔しくて、虚しくて、言葉になりませんでした。健康であればまだまだこれからの39歳でした。
私は現在37歳です。あと2年も経てば母の年齢に追いついてしまいます。そんなことをふと考えた時、
(私はこの年齢になるまで、何をしてきたのだろう?)
心の闇に支配されていて何も成し得ていない自分に気づきました。母が亡くなってからの私は自暴自棄になり、普通に生活をしていても心が空虚で、また新たな闇を生み出していました。
社会人になっても他人(ひと)に莫大な借金を背負わせられ、逃げられ、他人の借金を返すために身を粉にして働いた挙句、精神的にも肉体的にもボロボロとなり「うつ病」と診断され働けなくなってしまったのです。
それでも、働かないと背負わせられた借金を返せないと奮起して、仕事に復帰はしたものの新たに「パニック障害」を併発し、現在も通院と投薬治療で生活をしています。身体にガンも見つかり、今年3月に手術をし、今は定期的に検査をして経過観察をしています。そんな時だからこそかもしれませんが、今がとても幸せだと思える出来事がありました。
震災による津波の被害が甚大な石巻雄勝の漁師さんにお願いして漁船に乗せて頂き、海の上から被害に遭われた方や、亡くなられた方の供養をさせて頂いた時、悲しい気持ちと共に雄勝の美しい海と山に感動して、ボロボロと涙が止まりませんでした。これまで何も成し得ていない私が、ずっと探し続けてきた居場所を、ここに見つけることができたのです。失った物がたくさんあるこの地で、新たに根を張り、漁師としての道を歩み始めました。生きていて良かったなぁと改めて思うことができました。
先月の佼成会での「地区集会」にも初めて参加し、久しぶりに地区の皆さんとお会いし、いろいろなお話をさせて頂きました。母の姉妹であるおば達にも久しぶりに会うことができてとても嬉しかったし、母が早く亡くなった今、ずっと元気で長生きしてほしいと心から願っています。
小さい頃、若い頃、あんなに嫌いで憎かった家族も、今では父と妹だけになり、父も昔のようなトゲもなくなり、
「恵子が好きなように生きて幸せなら、お父さんも幸せなんだよ」
と言ってくれるようになりました。
いろいろな思いを父もまた抱えていたのだと思います。そんな父にも長生きしてほしいので、私自身も身体と心を強くして、みんなが幸せになるためにこれからも歩んでいきたいと思っています。
最後に、今、自分が生かされていることに感謝、命をつないでくれたご先祖さまに感謝、私を導いてくれているすべてに感謝いたします。
本当に、有り難うございます。