今月の機関誌『佼成』のご法話は「信じるものがある幸せ-禅定」がテーマです。私たちが日々読誦(どくじゅ)している経典の8ページに「諸の散乱の者には禅定の心を起こさしめ」とあります。禅定とは「つねに真理に従うように心が定まり」「どんなことが起こっても、迷ったり、動揺したりしない、静かな、落ち着いた心」とありますが、信じる確固たるものをもつことによって禅定が得られるように思います。
自分の過去を振り返ってみてください。本会に入会する前に比べ、徐々に修行が進んでいくうちに、迷ったり、動揺したりすることが少なくなってきているのではないでしょうか。私たちは仏さまの教え(真理・法)を日々実践しているうちに少しずつ禅定に近づいていると思います。
一方、人間である以上、だれもが動揺したり、迷ったりすることがあります。かと言って、そのことで「菩薩失格」ではないと会長先生は言われ、私たちを大きな心で包み込み、応援してくださっているようです。しかし、動揺したり、迷ったりのままでよいわけではありません。心が定まらないという現実を直視すれば、「何があっても揺らぐことのない境地を得たい」「心の底から信じられる確かなものをつかみたい」という前向きの気持ちを起こしていくことが大事なのだと思います。
後半には、教え(真理・法)を“月の明かり”にたとえられています。月のほのかな明かりでも暗い夜道を歩くときには足元を照らしてくれます。同様に、不安定で先の見通せない世の中を生きていくときに、正しい生き方を示してくれる教え(真理・法)があることで安心し、心穏やかに生きていくことができるというのです。これは、信仰する重要な目的であり、功徳であると思います。
「布施にはじまる六波羅蜜の各利他行は、私たちがそういう人たちの心に慈悲の光を届けることでもあるでしょう」(14頁終4行)とあります。
私たちが行っている「手どり」は“出会い”です、“つながること”です。決して行事へのお誘いや会費の徴収、連絡事項の伝達のためではありません。「手どり」には大きく二つの目的があると思います。
まず一つは“相手の仏性を礼拝すること”です。一般的に言えば、“人間として尊重すること”です。人はだれもみな人間として尊重してもらいたいのです。人を尊重すれば、自分自身も人から尊重していただけるようになります。
二つ目は、“仏さまの慈悲を届けること”です。私の慈悲(やさしさ)ではなく、私を通してその奥にある大いなる仏さまの慈悲を届けることができたら最高の「手どり」ではないでしょうか。そこには“私”の慈悲という私(我)がありません。そのためには、謙虚な気持ちで相手の思いや気持ちを聴き、理解することです。そして、自分自身が仏さまの慈悲を深く感じていることが大事だと思います。
困っている人を助けることは行政や慈善団体も行っています。しかし、そのことに加えて神仏(私たちを生かしている大いなるいのちの源)の慈悲を届けることは信仰者しかできない尊い行いです。信仰者ならではの重要な使命と言えます。それは立正佼成会の使命でもあり、宗教本来の使命であると確信しています。
合 掌
2022年9月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則