『佼成』5月号の会長法話は「妙音菩薩品」に因(ちな)んだもので、「ていねいに暮らす」がテーマです。妙音菩薩は、理想の世界から現実の娑婆世界に来られた菩薩さまです。この菩薩さまは、理想の象徴なのです。理想は尊いものに違いありませんが、それを現実の生活のなかに一歩一歩具現してこそ、真の価値があることをこの品で教えられているのです。信仰もただ教えを学ぶことにとどまらず、教えを少しでも実践していく精進が尊いのです。
さて、「一大事と申すは、今日ただいまの心なり」という禅僧の言葉が紹介されています。これは、朝起きて家族にあいさつをすることも、顔を洗うことも、ご供養することも、仕事をすることも、一つ一つどれもみな「一大事」であり、その行いに心を注ぎ、ていねいに取り組むことに変わりがあってはならないということなのでしょう。
しかし、現実の自分の生活をふりかえってみると、手抜きをしたり、いいかげんに済ませたりしていることがよくあり、大いに反省させられます。
また、人はみな「人生二度なし」で、今という時は、わが人生で一度限りの貴重なものであるはずです。しかし、私たちは、そのことを意識していないのが現実です。ぼんやりと一日を過ごしてしまい、気がついたら、もう一日が終わりかけていたという経験もよくあります。若いころはあまり感じませんが、年を重ねるごとに時間の大切さを実感し、一日を大切にしたいという思いが年々強くなってきているように感じます。
仏教には、精神を集中する修行として座禅や瞑想などがあります。しかし、本会にはそうした修行は特にありません。しいて言えば、読経がそれにあたると思いますが、不思議なことに、読経している時ほど、いろいろな雑念や妄想が浮かんでくるように感じますが皆さんはいかがでしょうか。
ところが、相手の幸せを願って真剣に話を聴かせてもらっている時、なんとか救われてほしいと念じている時などは精神が集中しているように感じます。まさに、他者のことを真剣に思っている瞬間は精神が集中し、自己を忘れた無我の心境にあると言ってもいいのかもしれません。そうした理由なのか、本会では座禅や瞑想といった修行ではなく、自分の都合を忘れ、ひたすら相手のことを思う行いを大切にしているのです。本会でよく使われる「まず人さま」ということばが、そのことを言い表していると思います。
私の若いころのつたない体験ですが、ある子どもさんが命に関わる重い病気にかかり、支部の皆さんで祈願供養をすることになりました。皆さんの祈りが日に日に真剣さを増し、私もその空気に没入して真剣に祈っていた時、「自分の命と引き換えに、どうかこの子どもの命を救ってください」という心境になりました。ほんの一瞬であったかもしれません。しかし、他人のために自分の命さえも犠牲にしてもかまわないと思った貴重な体験でした。
その体験により、自分というものに対する執着がわずかですが、ほどけていったような気がします。そうすると、気持ちが大らかになれた。そして、わずかながらも自分の都合をいったん忘れ、相手の都合にあわせることが、以前より容易にできるようになれたと感じます。その子はおかげさまでご守護頂き、今では立派な大人になり元気に暮らしています。そして、私にとってもあの時の体験は、本当に貴重なものとなっています。
最後に、「分別」についてです。「分別」とは、物事を“これはこれ、あれはあれ”というように区別して考えることですが、私たちは、「生活」と「信仰」を分けていることがよくあります。
道場に参拝している時、お役をしている時、ご供養している時などが信仰している時です。そして、自宅で生活しているときは、信仰から離れている時と考えています。
しかし、「信仰即生活・生活即信仰」というのが、本会の信仰の大きな特徴と言えます。これは、道場で学んだ教えを日常の生活のなかで実践してこそ功徳があり、信仰の価値があるということです。その意味で、「生活」と「信行」は一体のものであります。
コロナ禍の中、家庭で家族と共に過ごす時間が増えた方が多いと思います。今こそ「認めて・ほめて・感謝する」をはじめ、家庭や職場において教えを実践することを大事に精進していきましょう。
合 掌
2021年5月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則