💎 庭野日敬開祖「一日一言」~毎日のことば~(令和3年5月)

2021-59

 立正佼成会を創立した庭野日敬開祖の珠玉のおことばを「一日一言」と題して、毎日更新し、1つずつご紹介していきます。お陰さまで、このたびの5月で連載1周年を迎えました。今月は《『法華経』の名句とその開祖さまのお言葉》をテーマにお届けします。
〈*経典の訓読ならびに現代語訳は、『新釈法華三部経』(庭野日敬著)によります(一部を除く)〉

〇5月31日
 但(ただ)当(まさ)に深く因果(いんが)を信じ、一実(いちじつ)の道(どう)を信じ、仏は滅(めっ)したまわずと知るべし 《仏説観普賢菩薩行法経》

〈現代語訳:因果の道理を深く信じ、仏に至る菩薩道を信じ、久遠の仏はつねに自分と共におられて滅したまわぬと知ること〉

【庭野開祖のことば】
 これこそ、仏教全体を総まとめした、じつに尊いご指導といわなければなりません。
〈因果〉とは原因・結果の法則であり、宇宙を貫く科学的な法則です。根本仏教の骨格をなす教えです。
〈一実の道〉とは、すべての人間は、自分は意識しなくても〈仏となるただ一つの道〉を歩いているのだという真実です。したがって仏の教えの表面にはさまざまなちがいがあるようでも、その奥においては、〈仏の境地にみちびく〉というただ一つの真実につらぬかれているというとこです。これが〈一実の道〉です。
〈仏は滅したまわずと知る〉とは、いうまでもなく、久遠実成の本仏は不生不滅の宇宙の大生命であり、われわれはその大生命に生かされている分身だという真実を知ることです。
 この三つの信が心のなかに確立すれば、いかなる人もほんとうに自由自在の心境にたっすることができ、それがほんとうの救いなのです。まことにこれは、法華三部経の末尾にふさわしい大金言なのであります。(『新釈法華三部経』より)

〇5月30日
 未(いま)だ自ら度(ど)すること能(あた)わざれども、已(すで)に能(よ)く彼(かれ)を度(ど)せん 《無量義経十功徳品第三》

〈現代語訳:この教えを聞いた人は、まだ自分をすっかり迷いから脱け出させることができていなくても、ほかの人を救うことができるようになるでしょう〉

【庭野開祖のことば】
 よく記憶しておいていただきたい一句です。まだ、自分自身すら救いきれないでいる未熟な身でも、他の人を救うことができるというのです。なぜそれができるかといえば、自分は未熟でも、教えがりっぱだからです。(『新釈法華三部経』より)

〇5月29日
 今(いま)自在の力を得て  法に於(おい)て自在にして法王と為(な)りたまえり  我(われ)復(また)咸(ことごと)く共倶(とも)に稽首(けいしゅ)して  能(よ)く諸(もろもろ)の勤(つと)め難(がた)きを勤(つと)めたまえるに帰依(きえ)したてまつる 《無量義経徳行品第一》

〈現代語訳:(世尊は)いまや自由自在の力を得られ、どのような人間にも、それに合った教えを与えて、正しい道へ導いてくださるお方となられました。あらゆる教えを、み心のままにお説きになる、「法の王」となられました。わたくしどもは、おん前にぬかずきまして、普通の人間ではとうてい堪えられぬような難行苦行をなさって、ついに最高の智慧を成就されましたそのご努力に、心から帰依申し上げるものでございます〉

【庭野開祖のことば】
 《徳行品》の最後のこの節にいたって、いままでほめたたえてきた仏陀のお徳、み教えは、つまるところ仏陀ご自身が長い間のご努力のたまものであることを述べ、そのご努力に感謝と帰依の心を表わしています。ここは、現世のわれわれにとって非常に大事な節であり、ことに最後の〈能(よ)く諸(もろもろ)の勤(つと)め難(がた)きを勤(つと)めたまえるに帰依(きえ)したてまつる〉という一句は、肝に銘じておくべき教訓であると思います。(中略)
 仏さまの、すべてを成就された相だけを賛歎するのでなく、その境地に達せられるまでの努力というものをほめたたえ、その努力に心から帰依申しあげるというのです。これこそ、現世のわれわれにとって、大きな励ましであると受け取らねばなりません。(『新釈法華三部経』より)

〇5月28日
 仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当(まさ)に是(こ)の法華経を得(う)べし。一には諸仏に護念(ごねん)せらるることを為(え)、二には諸(もろもろ)の徳本(とくほん)を植え、三には正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是(かく)の如く四法を成就せば、如来の滅後に於(おい)て必ず是の経を得(え)ん 《普賢菩薩勧発品第二十八》

〈現代語訳:仏さまは普賢菩薩にお答えになりました。
「もし信仰深い男女が、つぎの四つのことがらを成就すれば、如来の滅後においてもこの法華経をつかんだことになり、法華経の真の功徳を得ることができましょう。その四つのことがらとはなにか―
第一に、諸仏に護念されていること。
第二に、もろもろの徳本を植えること。
第三に、正しい教えを実践する人びとの集団にはいること。
第四に、一切衆生を救おうという心を起こすこと。
もし信仰深い男女が、この四つのことがらを満足に行なえば、わたしがこの世を去ったのちにおいても、かならずこの法華経を自分のものにすることができるでしょう」〉

【庭野開祖のことば】
  ひじょうにだいじなところです。この場合の〈法華経を得(え)〉というのは、たんに法華経に会うということではありません。法華経に会った人が、それをほんとうに自分のものにするということです。そうしてこそ、真の功徳を得ることもできるのです。
 そのためには、四つの条件が必要であると教えられています。これは、法華経のしめくくりとして世尊がお示しになった信仰の要点であって、ひじょうにたいせつなことがらですから、しっかり考えてみましょう。(中略)
 そこで、この四法をきわめてやさしいことばにまとめてみますと、つぎのようになります。
一、自分は仏さまに生かされ、守られているのだということを、確信すること。
二、いつも善い行ないをするように心がけること。
三、いつも正しい信仰者の仲間にはいっていること。
四、いつも社会全体をよくすることをめざすこと。
 じつに尊い教えです。お釈迦さまのみ心を拝察するならば、「いままでいろいろむずかしい教えを説いたけれども、それを実践するには、つまりこれだけのことを心がければいいのだよ」と、平易にまとめてくださったのであろうとおもわれます。法華経の教えの深遠さに、すこしたじろぎ気味だった人たちも、これをうかがって、なにか新しい勇気の湧き起こる思いをしたことでありましょう。(『新釈法華三部経』より)

〇5月27日
 如来(にょらい)の法は不可思議(ふかしぎ)の微妙(みみょう)の功徳を具足(ぐそく)し成就したまえり。教戒(きょうかい)の所行(しょぎょう)安穏快善(あんのんけぜん)なり 《妙荘厳王本事品第二十七》

〈現代語訳:仏さまの教えには、考えおよぶことのできないほどすぐれた救いの力がそなわり、満ち満ちております。その教えや戒めを実践することはすこしも苦痛でなく、心安らかに楽しく行なっていくことができます〉

【庭野開祖のことば】
〈教戒(きょうかい)の所行(しょぎょう)安穏快善(あんのんけぜん)なり〉…これはたいせつなことばです。仏さまの教えは、けっして窮屈なものではありません。それを実践するのに苦痛をおぼえるものでもありません。なぜならば、それは人間の本質に即した教えであるからです。
 それを窮屈に感じたり、苦痛をおぼえたりするのは、つまりは迷いのゆえであります。われわれの迷いの心と正しい教えとのあいだに摩擦が起こるからであります。ですから、もし窮屈や苦痛をおぼえるならば、まだ迷いがある証拠ですから、その窮屈や苦痛を修行によって克服しなければなりません。修行の意義はそこにあるのです。(『新釈法華三部経』より)

〇5月26日
 是(こ)の十羅刹女(じゅうらせつにょ)、鬼子母(きしも)并(ならび)に其(そ)の子及び眷属(けんぞく)と倶に仏所に詣で、同声(どうしょう)に仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊、我等亦(また)法華経を読誦し受持せん者を擁護(おうご)して、其(そ)の衰患(すいげん)を除かんと欲す。若(も)し法師の短を伺い求むる者ありとも、便(たより)を得ざらしめん 《陀羅尼品第二十六》

〈現代語訳:この十人の羅刹女が、鬼子母とその子どもおよび家来たちとともに仏さまのおん前にまいり、声をそろえてもうしあげました。
「世尊、わたくしどもも、法華経を読誦し、受持するものを守護いたしまして、いろいろな障りがないようにしてあげたいとぞんじます。もし法華経を説く法師のあら探しなどをしようとするものがあっても、その手がかりを封じてしまいましょう」〉

【庭野開祖のことば】
 この品は、法華経のこれまでの説法に感激した人びとが、「誓ってこの教えを受持する人たちを守護いたします」と、つよいことばで宣言し、その守護のための神呪(じんしゅ)を説いた章であります。(中略)
 十人の羅刹女と、鬼子母が登場します。すなわち、おそろしい鬼女たちまでが、もし法華経の行者を悩ますものがあったら、自分たちが承知しない―と烈々たる決意をのべております。こういう鬼女たちにいたるまで、仏心は平等にあるという証拠です。逆にいえば、法華経の教えは、このような鬼女たちをも平等に成仏させる力をもっているということになります。(『新釈法華三部経』より)

〇5月25日
 真観(しんかん)・清浄観(しょうじょうかん) 広大智慧観(こうだいちえかん) 悲観(ひかん)及び慈観(じかん)あり 常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし 《観世音菩薩普門品第二十五》

〈現代語訳:観世音菩薩は、真実を見きわめる眼をもっておられます。迷いのない清らかな眼をもっておられます。宇宙の万物を自分と一体と見る広大な眼をもっておられます。すべての苦しみ悩めるものを救わねばならぬというやさしい思いに満ちた眼と、ありとあらゆる衆生をしあわせにしてあげたいという慈しみをたたえた眼をもっておられます。人びとは、つねにそのような眼をもちたいと願い、そのような眼を仰ぎ見て、手本としなければなりません〉

【庭野開祖のことば】
 真観とは真実を見極める眼(まなこ)、清浄観とは迷いをぬぐい去った清らかな眼、広大智慧観というのは広く一切のものを救う大きな智慧を具えた眼、悲観というのは苦しみ悩んでいる衆生をどうしてもその苦しみ悩みから救ってやらねばならぬと思って見る眼、慈観というのはすべての衆生を仕合わせにしてやりたいというなさけの心をもって見る眼・・・これらはすべては、もともと観世音菩薩の眼をたたえたことばです。目をたたえるということは、つまり心をたたえることであるのはもちろんです。
 そこで、― わたしたちも、あの観世音菩薩のような眼(心)をもった人になりたいと願い、つねにそれを仰ぎ見て手本にしてゆきたい ― というのが、「常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし」の意味です。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月24日
 善哉善哉(ぜんざいぜんざい)、汝(なんじ)能(よ)く釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を供養し、及び法華経を聴き、并(ならび)に文殊師利(もんじゅしり)等を見んが為(ため)の故(ゆえ)に此(ここ)に来至(らいし)せり 《妙音菩薩品第二十四》

〈現代語訳:「よろしい。妙音菩薩よ。そなたが釈迦牟尼仏を供養し、法華経を聞き、また仏弟子たちに会うためにこられたのは、たいへんりっぱなことです」と、おほめになりました。〉

【庭野開祖のことば】
 これは、だいじなおことばです。法華経(妙法)をお説きになった釈迦牟尼仏のご恩にむくいるために、さまざまに供養もうしあげること、その法華経の教えを聞くこと、またその教えを実践している高徳の菩薩たちに会って手本にすること、この三つを果たすために妙音菩薩が娑婆世界にこられたのを、妙法の証明者である多宝如来がおほめになっておられるのは、そのほめことばによって、その三つがひじょうにたいせつなことを証明されたことにほかなりません。理想国の大菩薩でさえそうですから、ましてや、われわれが、つねに仏さまを供養し、法華経の教えを聞き、いい手本を見習って、実践することに努めなければならないのは、いうまでもありません。

〇5月23日
 大王(だいおう)今当(いままさ)に知るべし 我(われ)彼(か)の処(ところ)の経行(きょうごう)して 即時に一切 現諸身三昧(げんしょしんさんまい)を得(え) 大精進を勤行(ごんぎょう)して所愛(しょあい)の身(み)を捨てにき 《薬王菩薩本事品第二十三》

〈現代語訳:大王よ。わたくしは、あの日月浄明徳仏のみもとで修行し、即時に一切現諸身三昧を得ましたが、その後も大精進いたしまして、愛する自分の身をも捨ててしまったのです〉

【庭野開祖のことば】
〈所愛の身を捨てにき〉…いいことばです。だれしも自分が愛しくない人はありません。世の中で自分をいちばんたいせつにおもうのは、生物としての本能です。
 しかし、ほかの生物とちがって、精神というものをもち、相互扶助・共存共栄の社会生活をいとなむ、一段高い生物である人間には、その高さのゆえに、そのたいせつな自分というものを犠牲にしなければならぬことがおおいのです。さきほどものべましたように、多かれ少なかれ自己を犠牲にしあい、譲りあうところに、人間社会というものは成り立つものであって、もしそれがなかったら、鳥や獣や虫などの生きかたとすこしも変わりはないものになりましょう。
〈所愛の身を捨てにき〉とは、まことに味わい深いことばであります。

〇5月22日
 若(も)し衆生あって信受せざらん者には、当(まさ)に如来の余(よ)の深法(じんぽう)の中に於て示教利喜(じきょうりき)すべし 《嘱累品第二十二》

〈現代語訳:もしこの教えを信受しない人があったならば、わたしの説いた、ほかの深い教えのなかから、その人の機根に適したものを選んで、徐々にこの教えにみちびくようにしなさい〉

【庭野開祖のことば】
 〈示教利喜〉……これは、初心の人を正法へみちびくための、合理的な順序・方法を教えられたものです。
 まず第一に、教えのあらましを示します。それが〈示〉です。そして、相手が「なるほど、そういうものかなぁ」と、心を動かしてきたら、もっと深く教えの意味を説いてあげます。それが〈教〉です。
 教えの内容をほぼ理解できたようにおもわれたら、つぎには、教えを実践して利益(内面的・外面的な功徳)を得るようにみちびきます。それが〈利〉です。
 そうなると、その人は、教えを信じ、心にたもち、そのとおり行なうことに喜びを感じ、生きがいをおぼえるようになります。それが〈喜〉です。ここまでくると、教えはその人の心にしっかりと定着し、たいていのことではあともどりしなくなるのです。
 以上が、初心の人を正法へみちびく基本的な順序です。(『新釈法華三部経』より)

〇5月21日
 日月(にちがつ)の光明の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く 斯(こ)の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟(ひっきょう)して一乗に住せしめん 《如来神力品第二十一》

〈現代語訳:日月の光明がすべての暗黒を消滅させるように、その人は、ひろく世間にこの教えを説きひろめることによって、よくおおくの人びとに迷いの暗(やみ)を消滅させ、無数の菩薩たちをかならず一仏乗の道にはいらせるでありましょう〉

【庭野開祖のことば】
 ひじょうに美しくかつ尊い、そして含蓄無量の偈(げ)であります。ぜひ暗記しておきたいものです。(中略)
 法華経の行者が、世間のなかで菩薩行を行ずるならば、おおくの衆生がそのなかであえぎ苦しんでいる迷いの闇は、かならず消滅し、朗らかで楽しい光明世界が現出すれであろうことを、お釈迦さまはここで力づよく保証していらっしゃるのです。
 同時に、法華経行者のそのような努力は、すべての信仰者を、すべて一乗へみちびくであろうとおおせられています。
 一乗というのは、一仏乗であり、自分をも他の人をもすべて仏の境地へたっせしめるという、ただひとつの、最終的な道であります。(「新釈法華三部経」より)

2夏07

〇5月20日
 是(こ)の仏の滅後 法尽きなんと欲(ほっ)せし時 一人の菩薩あり 常不軽(じょうふきょう)と名(なづ)く 時に諸(もろもろ)の四衆(ししゅ) 法に計著(けいじゃく)せり 不軽菩薩 其の所に往(ゆ)き到って 而(しか)も之に語って言わく 我(われ)汝(なんじ)を軽しめず 汝等(なんだち)道を行じて 皆当に作仏(さぶつ)すべしと 《常不軽菩薩品第二十》

〈現代語訳:この仏がおなくなりになって、その教えも忘れられようとするころ、ひとりの菩薩がありました。常不軽という名でした。そのころの出家・在家の修行者たちは、教えを自分流に勝手に解釈し、それにとらわれていましたが、常不軽菩薩はそうした人たちを見ると、そのそばに行って、こういうのでした。「わたしは、あなたがたを軽んじません。あなたがたは、菩薩の道を行ずることによって、かならず仏となる方々であるからです」と〉

【庭野開祖のことば】
 仏の教えの哲理を煮つめ煮つめたぎりぎりのエキスはなんでしょうか。〈一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)〉という真実がそれです。
 その真実を日常の生活に実践するのに、だれにもかんたんにできる行法とはどんなものでしょうか。〈自分の仏性をみつめ、人の仏性を拝むこと〉がそれです。
 自分の仏性をみつめることを怠らなければ、たとえ煩悩はそのまま放置しておいても、煩悩そのものがひとりでに善のエネルギーへ変わってしまうのです。(中略)
 人にたいしても、おなじことがいえます。(『新釈法華三部経』より)

〇5月19日
 若(も)し俗間(ぞっけん)の経書(きょうしょ)・治世(じせ)の語言・資生(ししょう)の業等(ごうとう)を説かんも、皆正法(しょうぼう)に順ぜん 《法師功徳品第十九》

〈現代語訳:もしその人が、日常生活についての教えや、世を治めるための言論や、産業についての指導などを行なっても、それらはおのずから正法に合致するものでありましょう〉

【庭野開祖のことば】
 現実の問題として、非常に大切なことです。
「俗間の経書」というのは、宗教以外の人生の指導書すなわち倫理・哲学なとの本をいいます。いや、本にかぎるわけでなく、口で説く場合も同様であり、この経書というのは教えそのもののことと考えていいのです。
「治世の語言」というのは、政治・経済・法律というようなことがらについて説くことをいいます。
「資生の業を説く」というのは、農業・工業・商業というような産業のことについて論じたり、指導したりすることです。
 深い信仰に到達している人は、こういう実際生活上のことがらについて説いても、それがおのずから正法(仏の教え)に一致してくるというのです。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月18日
 我(われ)今(いま)分明(ふんみょう)に汝に語る、是(こ)の人一切の楽具を以て四百万億阿僧祇(しひゃくまんのくあそうぎ)の世界の六趣の衆生に施(ほどこ)し、又(また)阿羅漢果(あらかんが)を得(え)せしめん。所得(しょとく)の功徳は是(こ)の第五十の人の法華経の一偈(いちげ)を聞いて随喜(ずいき)せん功徳には如(し)かじ。百分・千分・百千万億分(ひゃくせんまんのくぶん)にして其(そ)の一にも及ばじ。乃至(ないし)算数(さんじゅ)・譬諭(ひゆ)も知ること能(あた)わざる所なり。 《随喜功徳品第十八》

〈現代語訳:ここで、はっきりいっておきましょう。この人は、宇宙間のあらゆる生あるものにたいして、あらゆる物質上の施しをしたうえに、あらゆる煩悩まで除いてあげるという精神的な施しまでしました。
 ところが、そのことによって得る功徳も、さきにのべた第五十番目の人が法華経のたった一つの偈を聞いて喜びを感じたその功徳に比べれば、はるかにおよばないものでありましょう。その百分の一、千分の一、あるいは百千万億分の一にもおよびますまい。いや、数のうえで比較することは不可能なほどです〉

【庭野開祖の言葉】
 「法華経」の教えは、自分だけが救われればそれでいいというのではなく、他を救うという菩薩行が大眼目になっています。ですから、「法華経」の一偈でも聞いて「ありがたい」と感激した気持は、かならず人を救い、世を救う力となって発展していくのです。
 そこで、阿羅漢果(あらかんが)は自分自身の悟りとしては満点ですから、これを百という数字で現わすとします。それに対して「法華経」の一偈を聞いて起こした「初随喜(しょずいき)」の念は、その人の悟りとしてはまだ一の点数しか与えられないかもしれません。しかし、小乗の悟りの百と、大乗の教えの一とでは、そのねうちがうんとちがうのです。なぜならば、大乗の教えの一は無限に拡大していく一ですから、いつかは千にも万にもなる可能性をもっているのです。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月17日
 如来(にょらい)の滅後(めつご)に、若(も)し是(こ)の経を聞いて毀訾(きし)せずして随喜(ずいき)の心を起(おこ)さん。当(まさ)に知るべし、已(すで)に深信解(じんしんげ)の相と為(なづ)く 《分別功徳品第十七》

〈現代語訳:如来の滅後に、もしこの教えを聞いて、疑ったり、訾(そし)ったりすることなく、素直にありがたいという心を起こしたならば、それが、真実の信仰を得たものの相であると知るべきです〉

【庭野開祖のことば】
 ただ、あたまだけで「解った」とか、「なるほどそうだ」と思ったのでは、まだ信仰したとはいえません。「ああ、ありがたい」という喜びを覚えたとき、はじめて信仰の境地にはいったわけで、初めて随喜(ずいき)の心を起こしたのですから、これを「初随喜」といいます。この「初随喜」の心は、つぎの「随喜功徳品第十八」にも、その功徳がいろいろと説かれてあるほど、大切なものなのであります。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月16日
 毎(つね)に自ら是の念を作(な)す 何を以てか衆生をして 無上道に入り速(すみや)かに仏身を成就することを得せしめんと 《如来寿量品第十六》

〈現代語訳:どんな衆生にたいしても、わたしの本心はすこしも変わらないのです。「どうしたら、衆生を仏の道にみちびき入れることができるだろうか。どうしたら、早く仏の境地にたっしめることができるだろうか」と、つねにそれのみを念じているのです〉

【庭野開祖のことば】
 この〈毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り速かに仏身を成就することを得せしめんと〉という結びのおことばこそ、仏さまの慈悲の極地であります。たんに、その場その場の苦しみを救おうというのでなく、こういう本質的な救いを実現しようというのが、仏さまの本願なのであります。したがって、われわれの仏道修行も、これを目標とし、理想としてすすまねばなりません。(『新釈法華三部経』より)

〇5月15日
 善(よ)く菩薩の道を学(がく)して 世間(せけん)の法に染まらざること 蓮華(れんげ)の水に在(あ)るが如し 《従地涌出品第十五》

〈現代語訳:よく菩薩の道を学び、世間の汚(けが)れに染まらぬその清らかなお相(すがた)は、あたかも蓮の花が泥水に咲きながら、すこしも泥水に汚されていないのと同様でございます〉

【庭野開祖のことば】
 菩薩の道すなわち大乗の教えをすっかり身につけ、俗世間のなかに住みながら、俗世間のさまざまな汚れに影響されないのは、ちょうど蓮の花が泥水に咲いて、しかも清らかで、美しく、いささかの汚れもないのと同様であるというのです。菩薩の性格をじつに簡潔・適確に表現した名句といえましょう。(『新釈法華三部経』より)
 これこそ、「法華経」に教えられている人間の理想的なありかたです。世間から離れるのではない、世間にいながら美しく清らかに生活するのです。そして、社会のすべてをこのようなに清らかに、美しくしたいというのが「法華経」の理想なのです。「妙法蓮華経」という名前は、そこから出ているのです。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月14日
 智慧の光明(こうみょう) 日の照すが如くならん 《安楽行品第十四》

〈現代語訳:智慧の明るいことは、あたかも日光のようであり、あらゆる迷いの暗黒をもうち破るでありましょう〉

【庭野開祖のことば】
 この智慧を日光にたとえられたのは、じつに真理をズバリといい切ってあると思います。暗黒というものは、実質のあるものではない。すなわち暗いといっても、そこに黒い煙のようなものがたちこめているのではない。ただ光がないというだけのことなのです。ですから、光さえ射せば、暗黒はたちまち消え去るのです。仏の智慧を悟りさえすれば、その瞬間に心の暗(やみ)は消えてなくなるのです。仏の智慧というものは絶対のものであって、暗(やみ)と対立し、暗(やみ)を力づくで押しのけるような、そんな低いものではないことを、よく悟らなければならないと思います。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月13日
 我(われ)身命(しんみょう)を愛せず 但(ただ)無上道を惜しむ 《勧持品第十三》

〈現代語訳:わたくしどもは、命など惜しいとはおもいません。ただ仏さまのお説きになったこの無上の教えに触れない人がひとりでもいることが、なにより惜しいのでございます〉

【庭野開祖のことば】
 この無上の教えに触れない人がこの世にひとりでも残っているかぎり、それが惜しくてたまらない、それにくらべたら、命なんぞはすこしも惜しくない!・・・真理に生き、慈悲に生きる、烈々たる心境です。(『新釈法華三部経』より)

〇5月12日
 爾(そ)の時に竜女一つの宝珠あり、価直(けじき)三千大千世界なり。持って以(もっ)て仏に上(たてまつ)る 仏即(すなわ)ち之(これ)を受けたもう 《提婆達多品第十二》

〈現代語訳:竜女は手に持っていたひとつの宝珠を仏さまにささげました。その宝珠は、三千大千世界にも値いするほどの尊いものでした。仏さまは、ただちにそれをお受けとりになりました〉

【庭野開祖のことば】
 三千大千世界と同様の値うちのある宝珠とは、いったい何でしょうか。それは〈信〉にほかなりません。仏さまの教えにたいする絶対の信仰です。そういう〈信〉をもつことができれば、その瞬間から、われわれは宇宙の大生命と溶けあい、一体になることができます。宇宙がわがものとなってしまうのです。ですから、〈信〉は、たしかに三千大千世界と同様の値うちがあるということができます。ひじょうにたいせつな譬えだとおもいます。
 その宝珠を仏さまがすぐにお受とりになったというのは、〈信〉があれば仏さまのみ心と直通で感応しあうことができるということです。われわれが大生命(仏)の生かす力を心から信ずれば、その力はたちまちわれわれのなかではたらきはじめます。それが感応という作用であり、成仏への最短通路だというのです。(『新釈法華三部経』より)

〇5月11日
 爾(そ)の時に宝塔(ほうとう)の中(うち)より大音声(だいおんじょう)を出(いだ)して、歎(ほ)めて言(のたま)わく、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)、釈迦牟尼世尊、能(よ)く平等大慧(びょうどうだいえ)・教菩薩法(きょうぼさっぽう)・仏所護念(ぶっしょごねん)の妙法華経を以て大衆(だいしゅ)の為(ため)に説きたもう。是(かく)の如し、是(かく)の如し。釈迦牟尼世尊所説(しょせつ)の如きは皆是(みなこれ)れ真実なり 《見宝塔品第十一》

〈現代語訳:そのとき、宝塔の中から澄みきった大きな声が聞こえてきました。「善い哉(かな)、善い哉(かな)、釈迦牟尼世尊は、『あらゆる衆生は平等に仏性をもっている』という偉大なお見透(みとお)しにより(平等大慧をもって)、人のために尽くす行ないこそ仏の境界に達する道であるという教え(教菩薩法)であり、また仏が深くお護りになって機が熟さなければお説きにならぬ教え(仏所護念)である『妙法華経』を、大衆のためにお説きになりました。みなさんが、いま聞かれたとおりです。まことに釈迦牟尼世尊のお説きになることは、すべて真実なのです」〉(『法華経の新しい解釈』庭野日敬著より)

【庭野開祖のことば】
 この宇宙のあらゆる〈真〉と〈善〉と〈美〉そのものである仏性の大塔のなかから、力づよい大音声がひびきわたりました。その声は、お釈迦さまがいまお説きになっておられる妙法蓮華の教えは、まぎれもない真実の教えであると、ほめたたえたのです。(中略)
 もろもろの仏が秘要(教えのいちばんだいじな要・奥義)としてみ心のなかに秘めてこられたものであり、万人の平等の仏性を自覚させ、開発することによってこの世を救う実践の教え(菩薩道)であるこの妙法蓮華経を、お釈迦さまがはじめて、ひろく大衆のために公開されたのであります。
 これは、いくら賞賛しても賞賛しきれない聖業であり、人類にとって、万世にわたる一大事であったわけです。ですから、仏性の大塔のなかから、このような大音声がひびきわたったのであります。(『新釈法華三部経』より)

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〇5月10日
 咸(ことごと)く仏前(ぶつぜん)に於て妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至(ないし)一念も随喜(ずいき)せん者には我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし 《法師記品第十》

〈現代語訳:もしわたしが説く妙法華経の一偈でも一句でも聞いて、一瞬のあいだでも「ああ、ありがたい」と心からおもうものがあったら、わたしはその人に成仏の保証を授けましょう。その人はかならず仏の悟りを得るにちがいないからです〉

【庭野開祖のことば】
「法華経の一偈一句でも聞いて一念でも随喜する者は、必ず最高の悟りを得て仏になれることを、私が保証します」と「法師品」で仏さまは約束しておられます。信仰は不思議なもので、ほんのわずかしか教えを知らなくても、「ありがたい、ありがたい」と言っている人は、次から次へ功徳を頂戴できます。(中略)
 教えの一句でも、感激を持って受け止める人は、その教えを行じることに自分を燃やし尽くします。自分を燃やし尽くせる人は、周囲の人をも燃えさせることができるのです。ですから、まわり中(じゅう)が功徳だらけになってしまって、もう、ありがたくてたまらなくなるのです。(『開祖随感』より)

〇5月9日
 我太子たりし時 羅睺長子(らごちょうし)となり 我今仏道を成ずれば 法を受けて法子(ほうし)と為(な)れり 未来世(みらいせ)の中に於て 無量億(むりょうおく)の仏を見たてまつるに 皆其(そ)の長子となって 一心に仏道を求めん 《授学無学人記品第九》

〈現代語訳:わたしが太子であったとき、羅睺羅は長子として生まれ、わたしが仏の悟りを得ると、わたしの教えを受けて、教えの子となりました。未来世においても、無数の仏にお会いするでしょうが、つねにその長子となって、一心に仏の悟りを求めるでありましょう〉

【庭野開祖のことば】
〈法を受けて法子と為(な)れり〉
…尊いおことばです。肉親の子として生まれるのも、なみなみならぬ因縁によるものであり、あだやおろそかに考えてはならぬつながりでありますが、それにも増して大事なのは、この法の親子の関係です。梵文によれば〈教えの遺産を相続する偉大な聖者である〉とありますが、教えの遺産というものは無限大のものであり、何人が相続しても、すこしも減るものではありません。なろうとおもえば、だれでもその相続者になれるのです。
 われわれも、お釈迦さまの遺産相続者とならなければなりませんし、また、その遺産をできるだけおおくの人に伝えなければなりません。すなわち、みずからりっぱな〈法子〉となると同時に、この世に〈法子〉を無限にふやしていかなければならないのです。(『新釈法華三部経』より)

〇5月8日
 内(うち)に菩薩の行を秘(ひ)し 外(ほか)に是(こ)れ声聞(しょうもん)なりと現ず 《五百弟子受記品第八》

〈現代語訳:身中には菩薩の行をなしているとの自信を持ちながら、表面は普通の修行者の如くふるまう。小乗の悟りを求めて、現象世界へのとらわれから離れることを目的に修行しているかのようだが、じつは、大乗の悟りをもって、世の中全体を美しくする行いを実践しているのである〉(『現代語の法華経』庭野日敬著より)

【庭野開祖のことば】
 すばらしいおことばであります。謙虚で、まじめな指導者のありかたを、まざまざと示されています。〈内に菩薩の行を秘し 外(ほか)に是れ声聞なりと現ず〉―ぜひ暗記しておきたい名句です。(『新釈法華三部経』より)

〇5月7日
 願(ねが)わくは此(こ)の功徳を以て 普(あまね)く一切に及ぼし 我等(われら)と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜん 《化城諭品第七》

〈現代語訳:わたくしどもの願いといたしますところは、この功徳をあまねく一切のものにおよぼし、わたくしどもすべての衆生が、みんなおなじように仏の境地にたっしたいということでございます〉

【庭野開祖のことば】
 これは法華経の行者だけでなく、ほとんどすべての仏教信者が、お勤めの結びとして唱える文句ですから〈結願の文(けちがんのもん)〉ともいいますし、またその内容から〈普回向の文(ふえこうのもん)〉ともいいます。仏教信者の大きな〈願〉と〈行〉の精神は、この短い文句のなかに尽きているといってもいいでしょう。(『新釈法華三部経』より)

〇5月6日
 我(わ)が諸(もろもろ)の弟子の 威徳具足(いとくぐそく)せる 其(そ)の数(かず)五百なるも 皆当に授記すべし 未来世に於(おい)て 咸(ことごと)く成仏することを得ん 我及び汝等(なんだち)が 宿世(しゅくせ)の因縁 吾(われ)今当に説くべし 汝等(なんだち)善(よ)く聴(き)け 《授記品第六》

〈現代語訳:わたしの弟子には、このようなすばらしい徳をそなえているものが、ほかにもたくさんあります。いつかはその人たちにも、かならず授記しましょう。その人たちもわたしの教えによって、未来世においてことごとく仏となることができましょう。あなたがたは、この世においてはじめてわたしの教えを聞いたものとおもっているでしょうが、そうではなく、前の世からずっとわたしの弟子でありました。未来世においてもそうでありましょう。そうした因縁について、これから説き聞かせますから、よくお聞きなさい〉

【庭野開祖のことば】
 この宿世の因縁というのは、けっして釈尊と五百人の弟子の間だけの因縁でなく、無限の過去から永遠の未来までつづく、すべての仏とその弟子たちの因縁にほかならないのです。(中略)
 われわれも、幸いにして「法華経」に会うことができました。ということは、われわれにも修行次第で仏になれるという保証が与えられたことを意味するのです。迹仏としての釈尊は二千数百年前に入滅されたのですが、久遠実成の本仏釈迦牟尼世尊は永遠にわれわれと共にいてくださるのであります。そして、「法華経」を通じてわれわれにも成仏の保証を授けてくださるのです。(『法華経の新しい解釈』より) 

〇5月5日
 今世(こんぜ)・後世(ごせ)、実(じつ)の如く之(これ)を知る。我は是(こ)れ一切知者(いっさいちしゃ)・一切見者(いっさいけんしゃ)・知道者(ちどうしゃ)・開道者(かいどうしゃ)・説道者(せつどうしゃ)なり 《薬草諭品第五》

〈現代語訳:わたしは、現在の世界をも、未来の世界をも、あきらかに見とおしているものであります。一切を知りつくしているものであり、一切を見きわめているものであります。また、真実の道を知り、真実の道を開き、真実の道を説くものであります〉

【庭野開祖のことば】
 この知道、開道、説道ということは、「法華経」の修行者にとってはどれひとつ欠くことのできないものとされている大切なことです。「意(こころ)」をもって道を「知」り、「身」をもって道を「開」き、「口」をもって道を「説」く、これを「身口意(しんくい)」の三業(さんごう)といって、仏のおん足跡をふんでゆく法華経行者の、日々の規範となっているのです。(『法華経の新しい解釈』より)

〇5月4日
 世尊(せそん)は大恩まします 希有(けう)の事を以て 憐愍教化(れんみんきょうけ)して 我等を利益(りやく)したもう 無量億劫(むりょうおっこう)にも 誰(たれ)か能(よ)く報ずる者あらん 《信解品第四》

〈現代語訳:世尊には大恩がございます。わたくしどもをあわれとお考えになればこそ、めったに得られぬありがたい教えによっておみちびきくださり、この上もない利益をあたえてくださいました。そのご恩にたいしては、何万年かかってもとうていお報いできるものではございません〉

【庭野開祖のことば】
〈利益したもう〉…利益(りやく)をあたえてくださったというのですが、この場合の利益は小さな一時的な利益ではなく、どこまでも増大する永遠の大利益です。すなわち、一切衆生をすくうことのできる教えをあたえられたのですから、これほどの大利益はありえません。われわれとしてもおんなじで、ひとを物質的に助けたり、病苦からすくってあげるのももちろん尊い行為ですが、いちばんひとを利益するのは、仏の教えにみちびいてあげることです。こればかりは、金がなくても、教育がなくても、ただまごころさえあればできることです。しかも、この世における最高・最大の行為であることを、忘れてはならないのです。(『新釈法華三部経』より)

〇5月3日
 今(いま)此(こ)の三界(さんがい)は 皆是(こ)れ我(わ)が有(う)なり 其の中の衆生は 悉(ことごと)く是れ吾(わ)が子なり 而も今此の処(ところ)は諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し 唯(ただ)我一人(われいちにん)のみ 能(よ)く救護(くご)を為す 《譬諭品第三》 

〈現代語訳:この三界はわたしのものです。その中にいる衆生はすべてわたしの子です。しかも、この三界にはもろもろの苦しみ悩みが満ち満ちています。それを救うものは、わたしだけしかないのです。どうして、ほうっておかれましょう〉 

【庭野開祖のことば】
 この宇宙は全部わたしのものだ。万物はすべてわたしの子だ。そしてみんなを救うことのできるのはわたしひとりだ――なんという大自信に満ちたおことばでしょう。なんという大慈悲にあふれたおことばでしょう。
 しかし、これが実在のお釈迦さまおひとりだけのことではないのです。〈わたし〉というのは仏ということ、仏とは〈真如を悟ったもの〉なのですから、つまり〈真如を悟ったものにとっては全宇宙がその人のものだ〉という大宣言なのです。お釈迦さまには遠くおよばぬわれわれでさえも、静かに目をつむり、心を澄まして、「全宇宙は自分のものだ」と念ずれば、なんともいえないひろびろとした、のびのびとした心持(こころもち)になってくるではありませんか。(『新釈法華三部経』より)

〇5月2日
 一切(いっさい)の諸(もろもろ)の如来 無量の方便を以(もっ)て 諸(もろもろ)の衆生を度脱(どだつ)して 仏の無漏智(むろち)に入れたまわん 若(も)し法を聞くことあらん者は 一(ひと)りとして成仏(じょうぶつ)せずということなけん 《方便品第二》

〈現代語訳:すべての仏たちが、無数の適切な説きかたを用いて、おおくの人びとを救って解脱(げだつ)させ、一切の迷いを除いた仏の智慧に導かれるでありましょう。もしその教えをきくことのできた人はひとりとして成仏しないものはありますまい〉

【庭野開祖のことば】
 〈一(ひと)りとして成仏せずということなけん〉…ずいぶん思い切った断言ですが、お釈迦さまの大誓願はここにあるのです。何十万年かかろうが、何百万年かかろうが、人間のすべてを仏の境地に導きたい、いやそれは可能である ― それがお釈迦さまの広大深遠(こうだいしんえん)なお心なのです。
 われわれもこれに随順して、毎日すこしずつでもその方向へ歩んでいかなければなりません。そのほんのすこしずつの歩みが、いつかはこの大誓願への到達となるのです。まことに気の遠くなるような先の先の話ですけれども、とにかくそれへむかって歩んでいるのだという自覚は、われわれの人生の大きなささえとなるのです。生きがいともなるのです。(『新釈法華三部経』より)

〇5月1日
 諸人(しょにん)今当(いままさ)に知るべし 合掌して一心に待ちたてまつれ 仏(ほとけ)当(まさ)に法雨(ほうう)を雨(ふ)らして 道を求むる者に充足したもうべし 《序品第一》

〈現代語訳:すべての人びとよ。いまこそ時であります。合掌して一心にお待ちなさい。仏さまは尊い教えを雨のように降らして、仏道を求めるものの心を満足させてくださるにちがいありません〉

【庭野開祖のことば】
 美しい、尊い章句です。できれば暗記してほしいものです。(中略)こうして多くの人びとが、―  最高・最上の教えであるという妙法蓮華とはどんな教えであろうか。いまそれがうかがえるとは、なんというしあわせであろう  ―  と、期待と法悦に胸をおどらせながら、一心に合掌して待っていますと、やがて仏さまは三昧(さんまい)からお起ちになって、静かにお説きはじめになります。それが、つぎの〈方便品第二〉であります。(『新釈法華三部経』より)開祖さま一日一言(5月)

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