今月の『佼成』会長法話のテーマは「善い縁を結ぶために」。
「善い縁を結ぶ」には、「善い縁と受けとめる」と「善い縁になる」の二つの側面があります。
まず、前者の「善い縁と受けとめる」について・・・、どうしたらそのようになれるのでしょうか?その答えが次のお言葉だと思います。
この世のはたらきはすべて天命であり神仏のはからいなので、めぐりあう縁に善いも悪いもなく、自分中心の見方をしなければ、何もかもが必要あって出会う有り難い縁だということです。(13頁終6行)
ということは、「何もかもが必要あって有り難い縁だ」と受け取れないのは、自己中心の見方をしているからということになります。
先日、ある資料を読んだときに、開祖さまと私たちは信仰する目的がまったく違うように感じました。
私たちの信仰の目的は、都合の悪いことを良いことに変えたいためなのです。大難が小難に、小難が無難になることを願っているのです。これは人間として自然の願いです。しかし、いつまでもこの段階にだけ留まっていたのではもったいない話ですよ。最高の宝を手に入れることができたのに、途中で引き返し、ちっぽけな宝で満足しているようなものです。
一方、開祖さまは、「仏になること」が目的なのです。人格を向上させ、仏さまの手足となってはたらくような人間になるため。そのような心に高まるためには試練が不可欠です。開祖さまのご一生は決して平たんではなく、数多くの厳しい試練がありました。その試練を乗り越える過程を通して開祖さまの信仰が高められ、人格が向上したことに大きな意味があるのです。立正佼成会が今日のような教団に発展したことは、幹部の寝食を忘れた修行精進の賜物ではありますが、開祖さまの信仰の高まりこそが発展の原動力だと思いました。
「仏になること」が目的になった人は、出合う人や出来事がすべて仏に近づくための機縁であり、善き縁となってしまいます。「信仰者は、どんなこともありがたく受け取らなくてはいけないのですよね・・・」と言われる方が多くいます。しかし、本当の信仰者は、「どんなこともありがたくなってしまう」ものだと思います。
先日ある会員さんが、こんなお話をされました。ご主人のガンが数年ぶりに再発したとのこと。きっとショックで相談に来られたのかと思いました。ご主人から再発の知らせを聞いた時、その方は「お酒やタバコを止めるようにあれほど言ったのに・・・」と、ご主人を心の中で責めていたそうです。思い返せば、初めてガンと宣告されたときも同じような心であった。数年たっても少しも心が成長できていないに自分に気づき、そのことがショックだと言われるのです。
私はびっくりしました。そして「数年前と変わっていないと気づけたところが成長の証ですよ。それが精進の賜物だと思いますよ。」とお伝えしました。この方は、本当にすばらしい精進をされていると思いました。自分が成長できていないと反省できたということは、「心を成長させたい」「人格を高めたい」という目的意識がある証拠だと思うからです。
次に、後者の「善い縁になる」について・・・、どうしたらそうなれるのでしょうか?その答えが次のお言葉だと思います。
開祖さまは、善い縁をつくるには「まず人さまを拝むこと」と示され、自分を高く見せようとする小我を捨てると、善い縁となれるふれあいが生まれてくるともいっています。(15頁終5行)
この「人さまを拝む」、「小我を捨てる」の具体的実践が「認めて・ほめて・感謝する」です。「認めて・ほめて・感謝する」は、単なる人間関係をよくするための処世術ではありません。「人さまを拝む」、「小我を捨てる」という大事な仏道修行なのです。よって、相手を変えることではなく、自らが「認めて・ほめて・感謝できる」人に変わっていくことです。そのことによって、「善い縁になれる」人に変われるのです。
最後に・・・
いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、私たちはどう応えたらいいのでしょうかー大事なご縁を見逃しているのかもしれません。(16頁終3行)
先月のご命日に教会で説法された方は、介護施設に勤務する方。ある日突然、近所の方からを介護の手伝いをお願いされた。ボランティアなのに、ときには家族のことよりも優先し、最後の看取りまでかかわり続けたそうです。
なぜそこまでかかわり続けられたのか?誰かの役に立ちたいという「仏性」「菩薩の心」と言うしかありません。本当にすごい方だと思いました。きっと、私たちにも同じ心があるはずです。それを動かしてみましょう。
合 掌
2021年9月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則