今月号の「佼成」の会長法話のテーマは、「我慢しない-忍辱①」です。忍辱とは、「他に対してつねに寛容であり、どんな困難も耐え忍ぶと同時に、どんな得意な状態にあってもおごりたかぶらない平静な心を持つこと」と教えられます。この言葉からは、「耐え忍ぶ」とか「我慢する」というイメージが湧いてきます。
しかし、庭野会長は、「我慢しない」ことだと述べています。無理にでも「怒りを抑えなさい」「我慢しなさいと教えるのではなく、自分の仏性によって、自然に耐える気持ちが「起こさしめられる」と示されていることに、私は救われる思いがします。忍辱はけっして我慢を強いる教えではないのです。(12頁5行)。
この「自然に耐える気持ちが起こさしめられる」とはどういうことなのでしょうか?
日々読誦させていただいて『経典』の無量義経十功徳品には、慳貪(物惜しみする心)の者には布施の心(人のために施そうという心)を起こさしめ、驕慢(おごりたかぶる心)多き者には持戒(仏の戒めを守って謙虚な心)を起こさしめ、懈怠(なまけ心)を生じる者には精進(進むべき道を真剣に歩む)の心を起こさしめ、散乱(周囲の変化に心が動揺し乱れる)の者には禅定(いつも静かで安定した)の心を起こさしめ、愚痴(無知でものごとに正しく対応できない)多き者には智慧(真理・法にそって正しく対応できる)の心を起こさしめなど・・・たくさんの功徳が説かれています。これらはすべて「起こさしめ」となっていますから、無理にそうしようと力まなくても、自然とそのようになるという意味になります。
なぜそのような数々の功徳が自然と起こさしめられるのかの根本をたどれば、”仏性を自覚”にあると思います。自分にも他人も皆平等に仏と同じいのちに生かされた存在である。たとえ、どんなに愚かで、失敗を繰り返していたとしても、必ず仏さまの説かれる教えの如くに成長・向上することができるというのです。
では次に、どうしたら仏性の自覚が深まるか?
その一つが「認めて・ほめて・感謝する」の実践です。仙台教会の皆さんに聞いてみると、「ほめる」こと、「感謝する」ことはしやすいが、「認める」ことが案外難しいようです。
「認める」というのは、相手の言うことに無条件に従うことと理解している人が多いようですが、そうではありません。「認める」とは「仏性の存在」を認めることです。たとえ自分にとって不都合な人も、思い通りならない人も、皆仏性を持っている、仏の子であるということを認めることです。
そこまで、一足飛びに行かない場合は、「相手の気持ちになってみる、相手の立場に立ってみる」。そうすると、相手との距離が少し近づいてきます。
それも難しい場合は、「相手の長所をみつけ、ほめてみる」。そうすると、相手の距離がさらに近くなってきます。
それも難しい場合は、「相手の話に”そうだね”とおまじないのように相づちを打ってみる」。自分と異なる意見であったとしても、まずは「そうだね」と相づちを打つ。その後に「私はこう思うけど、どうかしら」とか、「こんな考え方もあると思うけど、どうかしら」というような対応が考えられます。
いずれにしても、根本は自他の仏性の自覚です。そこから想像以上のすばらしい功徳が無限に生み出されてくるのです。そのことをしっかり受け止めてください。
合 掌
2022年5月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則