💎 庭野日敬開祖「一日一言」~毎日のことば~(令和3年6月)

2021-15(決定)

 立正佼成会を創立した庭野日敬開祖の珠玉のことばを「一日一言」と題して、毎日更新し、1つずつご紹介していきます。今月6月も《『法華経』の名句とその庭野開祖のことば》をテーマにお届けします。
〈*経典の訓読ならびに現代語訳は、『新釈法華三部経』(庭野日敬著)によります〉

【6月30日 大乗経典は諸仏の宝蔵なり】
 此(こ)の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目(がんもく)なり。三世の諸(もろもろ)の如来を出生する種なり (仏説観普賢菩薩行法経)

〈現代語訳:この大乗の教えは、諸仏がもっともたいせつな宝とされているものであります。時間的には過去・現在・未来の三世を通じ、空間的には十方の世界にわたって、あらゆる仏の教えの眼目となる教えであります。十方三世の諸仏は、この教えからこそ生まれるのであります〉

《庭野開祖のことば》
〈諸仏の宝蔵〉であり、〈諸仏の眼目〉であり〈如来を出生する種〉であるというこの三句は、大乗経典の尊さを簡潔にいいあらわしている名言であるとおもいます。これを浅く読めば、なんとなく大乗経典は諸仏のためだけのもののように受けとられるかもしれませんが、それはとんでもない誤解です。諸仏如来は、その悟りも、はたらきも、衆生済度を目的とされているのですから、その宝蔵であり、眼目であり、出生の種である大乗経典は、つまるところは〈衆生のための教え〉・〈衆生を仏の境地にまでみちびく教え〉にほかならないのであります。(『新釈法華三部経』より)

【6月29日 方等経典(ほうどうきょうでん)は為(こ)れ慈悲の主(しゅ)なり】
 方等経典(ほうどうきょうでん)は為(こ)れ慈悲の主(しゅ)なり。唯(ただ)願わくは我(われ)を観(み)、我(わ)が所説を聴(き)きたまえ (仏説観普賢菩薩行法経)

〈現代語訳:大乗の教えを学んで、すべての人が平等に仏性をもっていることを悟ってこそ、ほんとうの慈悲心が湧いてくるものと、わたくしは信じております。どうぞ、わたくしの心の奥をきびしくごらんになってください。そして、わたくしが懺悔いたしますことを、つぶさにお聞きくださいませ〉

《庭野開祖のことば》
 ここも、ずいぶん語句を補足して、意訳につとめました。
 〈方等経典は為れ慈悲の主なり〉…これはだいじなことばです。大乗の教えは慈悲心のおおもとになるものであるという意味です。なぜそうであるかといえば、大乗経典の核心となる教えは、〈すべての人が平等に仏性をもっている〉ということです。もっと掘りさげていえば、〈一切の人間も、動植物も、無生物も、すべて久遠の本仏に生かされ、仏性をもった自分と同等の存在である〉ということです。
 このことを心の底から悟ることができたならば、おのずからすべての人間・動植物・無生物にたいする愛情が湧いてこざるをえません。いわゆる自他一体感にもとづく深い愛情です。こういった愛情を慈悲というのです。(中略)
 このような慈悲は、まえにものべましたように、〈万物は久遠本仏に生かされている〉と説く大乗の神髄をしんそこから悟ることによってこそ生ずるものでありますから、じつに〈方等経典は為れ慈悲の主なり〉なのであります。(『新釈法華三部経』より)

【6月28日 其の頭(こうべ)を摩(な)でたもうを為(え)ん】
 若(も)し受持し読誦し正憶念(しょうおくねん)し、其(そ)の義趣(ぎしゅ)を解(げ)し説の如く修行することあらん。当(まさ)に知るべし、是(こ)の人は普賢の行を行ずるなり。無量無辺の諸仏の所に於(おい)て、深く善根を種(う)えたるなり。諸(もろもろ)の如来の手(みて)をもって、其の頭(こうべ)を摩(な)でたもうを為(え)ん (普賢菩薩勧発品第二十八)

〈現代語訳:またもし、この教えを受持し、読誦し、正しく記憶し、その内容をよく理解し、そして教えのとおり修行するものがありましたならば、その人は普賢とおなじ行を行なっているものと知らなければなりません。その人は、きっと前世から数おおくの諸仏に仕えて、もろもろの善根を積んだ人でございましょう。こういう人は、如来のみ手で頭をなでていただくに値する人といえましょう〉

《庭野開祖のことば》
 ここには、ひじょうに尊い三つの句があります。
 第一は、〈是の人は普賢の行を行ずるなり〉です。法華経の教えを受持・読誦し、正しく記憶し、意義を会得し、そのとおり修行するものは、普賢菩薩の行ないとそっくりおなじことを行なっているのだというのです。すなわち、その人自身が普賢菩薩であるということです。そういう自覚をもちえるということは、なんというすばらしさでしょう。信仰者ならでは得られぬ大自信の境地であります。
 第二は、〈無量無辺の諸仏の所に於て、深く善根を種えたるなり〉です。こうして法華経を受持することができたわれわれは、過去世において、もろもろの仏さまのみもとで修行を積み、善根を植えたものであります。それをおもえば、また大きな自信をもつことができます。現世における地位・職業などのいかんにかかわらず、自分は仏の子なのだという自覚をもつことができるのです。これまた、じつにすばらしいことであります。これからさき、おおいに胸を張って人生の道を闊歩していくことができるのであります。
 第三は、〈諸の如来の手をもって、其の頭を摩でたもうを為ん〉です。仏さまに頭をなでていただく…それは日本人の習慣から解釈すれば、仏さまにほめていただくことになります。そう受けとっても、おおいに結構です。また、これをインドの習慣から解釈すれば、仏さまに信頼していただくことになります。これもひじょうにありがたいことです。とにかく、仏さまにほめていただき、信頼していただくということは、信仰者として無上の喜びです。すばらしい法悦の境地です。
 この三つの句は、いつでも暗誦できるように正憶念したいものであります。(『新釈法華三部経』より)

【6月27日 神通力を具足(ぐそく)し 広く智の方便を修して】
 神通力を具足し 広く智の方便を修して 十方の諸(もろもろ)の国土に 刹(くに)として身を現ぜざることなし (観世音菩薩普門品第二十五)

〈現代語訳:観世音菩薩は自由自在な神通力をそなえ、どのような場合にもピタリとあてはまる智慧のはたらきを身につけ、必要あらばいかなる所にもあらわれて、救いのはたらきをされるのであります〉

《庭野開祖のことば》
 われわれふつうの人間にとって、神通力というのは、つまり自由自在な力ということです。つねにピタリと的を射たことを考え、言い、行なうことのできる力です。いわば透徹した智慧です。
 観世音菩薩はそうした智慧の権化でありますから、われわれもそれに学ばなければならないのです。観世音菩薩にならなければならないのです。(中略)
 ひとの気持がよくわかる。考えていることもよくわかる。欲していることもよくわかる。そして、いまその人のためにどんなことをしてあげるのがいちばん正しいか、どうしてあげればほんとうにその人を幸福にしてあげることができるか、その判断がひとりでにピシッと的を射る……こうならなければならないのです。それが、われわれの学ばなければならぬ観世音菩薩の神通力であります。

【6月26日 観音妙智の力 能(よ)く世間(せけん)の苦を救う】
 衆生困厄(こんやく)を被(こうむ)って 無量の苦身(くみ)を逼(せ)めんに 観音妙智の力 能(よ)く世間の苦を救う (観世音菩薩普門品第二十五)

〈現代語訳:おおくの人びとがさまざまな困難に会い、ひじょうな苦しみにさいなまれるとき、観世音菩薩の不可思議な智慧の力は、よくこのような人びとの苦しみを救うでありましょう〉

《庭野開祖のことば》
 いままでさまざまな苦難を救う観音力についてのべられてきた、その結びの句であります。
〈観音妙智の力〉…もろもろの衆生の心の声を聞き分け、それにふさわしい救いをあたえる至上の智慧、いわくいいがたい不可思議な智慧です。(中略)つねに真理にもとづきながら、しかもその人・その場合に即応した、目的にかなった智慧であります。
  さまざまな困厄をこうむって、苦しくてたまらぬとき、こういう智慧がフッと湧いてくるならば、その苦しみをたちまちはねかえすことができます。このはねかえすということが人生にとってひじょうにたいせつであって、はねかえす力をもつものは、どんな困難をも乗りきることができます。(中略)
 そこに信仰のありがたさがあるのです。信仰によって、心のよりどころをもっていさえすれば、どんな人でも、なんとか苦難の底から立ちあがることができます。立ちあがりさえすれば、世の中はなんとかなるようにできているものです。
 この〈信仰心によってなんとか立ちあがり立ち直る〉、その不可思議な力が〈観音妙智の力〉であるといってもいいでしょう。なんとかというのは、一見とりとめのないことばのように聞こえますが、このなんとかというところに、真の智慧のはたらきの至妙さがあるのです。
 それは、「こうすればこうなる」とハッキリ割りきることのできない一種のひらめきです。信仰をもつ人には、いざというときにそのようなひらめきがおとずれるのです。どん底におちいったとき、そのようなひらめきをおぼえて、新しい勇気を得ることができるのです。(『新釈法華三部経』より)

【6月25日 能(よ)く一切の生死(しょうじ)の縛(ばく)を解かしめたもう】
 清涼(しょうりょう)の池の能(よ)く一切の諸(もろもろ)の渇乏(かつぼう)の者に満つるが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣(ころも)を得たるが如く、商人の主(しゅ)を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡(わたり)に船を得たるが如く、病に医(くすし)を得たるが如く、闇に燈(ともしび)を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客(こかく)の海を得たるが如く、炬(ともしび)の暗(やみ)を除くが如く、此の法華経も亦復(またまた)是(かく)の如し。能(よ)く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛(ばく)を解かしめたもう (薬王菩薩本事品第二十三)

〈現代語訳:清らかな水をたたえた池のところへくれば、のどの渇いた人すべてがその水を飲んで満足するように、また寒さに震えていた人が暖かい火を得て生きかえった気持になるように、裸の人が着物を得たように、他国へ旅する隊商がよい案内人を得たように、子どもが母に会ったように、渡し場で船をみつけたように、病気のとき医師にきてもらったように、真っ暗な夜に灯火を得たように、貧しいものが宝を得たように、人民がいい統治者を得たように、貿易者が平穏な海路を見つけたように、たいまつの火が闇を照らしだすように、この法華経もちょうどそのような力をもつものであります。法華経は、衆生の一切の悩みや病苦を除き、生死という輪廻の束縛から、人間を解き放つものであります〉

《庭野開祖のことば》
 これを世に〈十二諭の利益(りやく)〉といい、法華経の利益を十二のたとえであらわしてあるわけですが、そのひとつひとつをよくあじわってみれば、たんなる形容ではないことがわかってくることとおもいます。なかでも、いちばんだいじなのは、最後の一句です。
 生死というのは、輪廻のことで、何回も生まれ変わり死に変わりすることです。ですから、生死の縛というのは、そういう輪廻の苦しみから逃れられないことをいうのです。ところが、ひとたび仏の教えの真髄である法華経を知り、それを受持するようになれば、そのような輪廻の苦しみから解脱できるようになるというのです。すなわち、仏の悟りを得ることができるようになるのです。
 それを現実の生活にそくしていうなら、どんな変化が身辺に起こっても動かされない、自由自在な心境にたっせられるというわけです。
〈能く一切の生死の縛を解かしめたもう〉とは、まことにいいことばです。

【6月24日 仏慧(ぶって)を得せしめんが為(ため)の故なり】
 未来世に於(おい)て、若(も)し善男子・善女人あって如来の智慧を信ぜん者には、当(まさ)に為(ため)に此の法華経を演説して、聞知(もんち)することを得(え)せしむべし。其(そ)の人をして仏慧(ぶって)を得せしめんが為の故なり (嘱累品第二十二)

〈現代語訳:もし未来世において、わたしの慈悲の智慧を信ずる信仰深い男女があったならば、その人びとのために、この法華経の教えをよく説き聞かせてあげなさい。それはなんのためでもない、その人に仏とおなじような智慧を得させるためであります〉

《庭野開祖のことば》
 なんのために法を説くのか、なんのために法華経の教えをひろめるのか、それは畢竟(くきょう)、〈仏の智慧〉をみんなに成就させるためである…というのです。
 この〈其の人をして仏慧(ぶって)を得せしめんが為の故なり〉ということばは、仏教の目的をきわめて簡明にいいあらわした、ひじょうに重みのあることばであるとおもいます。よく記憶しておきたいものです。
 その人を、他動的に、そして外面的にしあわせにしてあげるのではなく、その人のほんらいもっている仏性と、そこに内在する仏の智慧を引き出し、育ててあげることによって、〈自分で自分をしあわせにするよう〉しかも〈心の奥からにじみだしてくる深いしあわせを得るよう〉にみちびいてあげる、これが仏法の真の目的であり、正しい方法でもあるわけです。(『新釈法華三部経』より)

【6月23日 皆此(みなこ)の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す】
要(よう)を以て之を言わば、如来の一切の所有(しょう)の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵(ぞう)・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す (如来神力品第二十一)

〈現代語訳:その要点をまとめていうならば、如来の悟った一切の法と、如来のもつ自由自在の一切のはたらきと、如来の胸に満ち満ちている一切の重要な教えと、如来の一身が経てきた一切の内的・外的な深い経験のすべてを、みなこの教えのなかにのべ示し、説き明かしてあるのです〉

《庭野開祖のことば》
 これは、総まとめのまた総まとめであって、たいへん重要な一節です。仏さまのもっておられる、ありとあらゆる徳と、力と、はたらきを、これだけの文章に結晶させてあるわけです。(『新釈法華三部経』より)
 世尊は、「法華経」の全体の総まとめである「如来神力品」の、そのまた総まとめとして、「その要点をひっくるめていえば、如来の悟った一切の法、その法から発する一切の衆生済度のはたらき、そのはたらきとして現われる一切の教え、過去において実際に現わしてきた一切の衆生済度の行ない・・・これらのものをすべて、この経の中ではっきりと示し説き明かしたのである」とおおせになったわけです。「法華経」のもつ最高の価値、その完全無欠さが、ここで改めて釈尊ご自身のおことばとして証明されているわけです。(『法華経の新しい解釈』より)

【6月22日 応当(まさ)に一心に 広く此の経を説くべし】
 是(こ)の故に行者 仏の滅後に於(おい)て 是(かく)の如き経を聞いて 疑惑(ぎわく)を生ずることなかれ 応当(まさ)に一心に 広く此の経を説くべし 世世(せせ)に仏に値(あ)いたてまつりて 疾(と)く仏道を成(じょう)ぜん (常不軽菩薩品第二十)

〈現代語訳:わたしが入滅したのちの世の行者たちよ、このような尊い教えを聞いて、かりそめにも疑惑を生じてはなりません。ぜひ、まごころをこめて、この経を説きひろめなければならないのです。そうすれば、その功徳によって、生まれ変わるごとに仏に会いたてまつることができ、まわり道をすることなく仏の悟りにたっすることができましょう〉

《庭野開祖のことば》
 最後の〈応当(まさ)に一心に広く此の経を説くべし世世(せせ)に仏に値(あ)いたてまつりて疾(と)く仏道を成(じょう)ぜん〉という四句は、説法の功徳をよく簡明に表現してあります。暗誦できるように、おぼえておきたいものです。
 この《常不軽菩薩品》は、はじめに〈但行礼拝〉(ただ仏性礼拝のみを行ずる)を強調してありました。それは、さきにものべたように、〈仏性の自覚・礼拝ということが仏道修行の根本であり、すべてに先行するものでなければならぬ〉ということを教えられたものであり、読誦や説法は不要だということではないのです。
 常不軽菩薩も、〈但行礼拝〉の功徳によって法華経を自得したのちは、世々にわたってそれを説き、無数の人びとに功徳をあたえました。そういう利他の行ないを行じつづけたからこそ、くりかえしくりかえし法華経を体得し(世世に仏に値いたてまつり)、しだいにその悟りを深め、ついに最高のめざめの境地にたっする(仏道を成ずる)ことができたわけです。
 そのなりゆきは、われわれ後世の人間にもそっくりあてはまるものであり、それを教えたのが法華経にほかならないわけです。ですから、われわれは、常不軽菩薩の〈仏性礼拝〉の態度を見習うと同時に、〈説法による大衆の仏性顕現〉という努力をも、おおいにかがみとしなければならないのです。(『新釈法華三部経』より)

【6月21日 我敢(あえ)て汝等(なんだち)を軽(かろ)しめず】
 此(かく)の如く多年を経歴(きょうりゃく)して、常に罵詈(めり)せらるれども瞋恚(しんに)を生ぜずして、常に是(こ)の言(ことば)を作(な)す、汝(なんじ)当(まさ)に作仏(さぶつ)すべしと。是の語(ことば)を説く時、衆人或(あるい)は杖木(じょうもく)・瓦石(がしゃく)を以て之を打擲(ちょうちゃく)すれば、避け走り遠く住して、猶お高声(こうしょう)に唱えて言わく、我敢(あえ)て汝等(なんだち)を軽(かろ)しめず、汝等皆当に作仏すべしと (常不軽菩薩品第二十)

〈現代語訳:こうして、長い年月のあいだ罵(ののし)られどおしでしたが、その菩薩比丘はけっして怒りません。あいかわらず、人さえ見れば、「あなたは仏になるお方です」というのでした。そのことばの真意のわからない群衆は、すっかり腹を立て、杖や棒でたたいたり、石や瓦を投げつけたりするのでした。すると、その菩薩比丘(ぼさつびく)は走って逃げ、遠くのほうから、なおも「わたしには、どうしてもあなたがたを軽んずることができません。あなたがたは、かならず仏になる人たちだからです」と、大声に唱えるのでした〉

《庭野開祖のことば》
 法華経には、常不軽菩薩の礼拝行が説かれています。常不軽菩薩は、どんな人であろうが「この人は仏性を具えていて、必ず仏になる人だ」と、もう、ぜったいに信じきって拝み続けるのです。
 ですから、石を投げつけられても、杖で打ちかかられても、「あなたがどんなことをしようと、私は、あなたを信じて疑いません。あなたは仏になる人だからです」と拝み続ける。相手がどんなむちゃを言おうが、まったくおかまいなしです。文字とおり、拝み倒すのです。
 そういう人に出会うと、人は降参するしかないのですね。心の奥の奥に眠っている、けがれのないきれいな心がほとばしってくるのです。(『開祖随感』より)

蓮 6月「一日一言」使用

【6月20日 即(すなわ)ち是れ仏(ほとけ)受用(じゅよう)したもう】
 仏子此(こ)の地に住すれば 即ち是(こ)れ仏(ほとけ)受用(じゅよう)したもう 常に其の中に在(ましま)して 経行(きょうぎょう)し若(も)しは坐臥(ざが)したまわん (分別功徳品第十七)

〈現代語訳:仏の教えを心から信受している人の住するところは、仏もそれを自分の住するところとして用いるのです。すなわち、つねにそこにとどまられ、そぞろ歩きをしながら法を考えたり、すわって禅定にはいったり、またそこでやすむでしょう〉

《庭野開祖のことば》
 尊いおことばです。仏さまは、仏の教えを心から信受しているものを、ほんとうの子と同様にお考えになりますから、仏子とおっしゃっておられるのです。
 その仏子の住しているところは、仏さまがご自分の住む場所としてくださるというのです。それが〈受用〉の意味です。つまり、そういう人のところには、仏さまのほうからおいでになって、いっしょに住んでくださるというのです。
 信仰者にとって、これほどうれしい、ありがたいことはありますまい。仏さまとともに住み、仏さまとともに起き、仏さまとともに眠りにつく・・・まことに信仰生活の極地の法悦境というべきでありましょう。(『新釈法華三部経』より)

【6月19日 一心に仏を見たてまつらんと欲して】
 衆生既(すで)に信伏(しんぶく)し 質直(しちじき)にして意(こころ)柔輭(にゅうなん)に 一心(いっしん)に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命(しんみょう)を惜(おし)まず (如来寿量品第十六)

〈現代語訳:教えを求めずにはいられなくなった衆生は、その教えを心から信じ、まっすぐな素直な心で、しかも一心に、仏と共にあるという自覚を得ようと欲し、そのためには命さえもいらないというほどの真剣な気持になるのです〉

《庭野開祖のことば》
 この「仏を見たてまつる」というのは、「仏といっしょにいるという自覚を得る」ということです。「自分はたしかに仏さまに抱かれている。生かされている」という自覚がはっきりとしてくると、それはとりもなおさず仏を見たてまっているわけです。
 そういう自覚を得れば、まったく大安心の境地です。どんなことが起ころうとも、ビクともするものではありません。ですから、そういう境地に達するためには、だれだって金も、地位も、名誉もいらない、いや命さえ投げだしても惜しくない気持になるのは、当然のことなのです。(『法華経の新しい解釈』より)
 それは、けっして生命を軽んずるものではありません。逆に、そうなってこそ自分のほんとうのいのちを生かすことができるのです。世間的な欲望というものは、仮りの我(わ)れ、一時的な現象の我(わ)れを生かしたいという望みです。ですから、そういう望みがつよければ、ほんとうの自分というものは、かえって生きてこないのです。
 生命を捨ててもかまわない――という、無我の、すがすがしい心境になってこそ、自分のほんとうのいのち、不生不滅の仏性が生きてくるのです。(『新釈法華三部経』より)

【6月18日 常に此(ここ)に住(じゅう)して法を説く】
 衆生を度(ど)せんが為(ため)の故に 方便して涅槃(ねはん)を現ず 而(しか)も実には滅度せず 常に此(ここ)に住(じゅう)して法を説く (如来寿量品第十六)

〈現代語訳:わたしは、衆生を救うひとつの手段として、この世から姿を消したこともあります。しかし、じっさいは滅度したのではなく、つねにこの娑婆世界に住して法を説いているのです〉

《庭野開祖のことば》
 『経典』に「常に此に住して法を説く」というお言葉があります。仏さまは「私は、仏の悟りを得てからずっと真理の教えを説いて無数の人を仏道に導いてきた。私は、いつもこの世界で法を説き続けているのだよ」とおっしゃられているのです。(中略)
 私たちは、毎日さまざまな人に出会います。その言葉で教えられます。人さまの善い行いを見て啓発され、世の中のさまざまな出来事によって法の働きを悟らせてもらうのですが、それがすべて仏さまのお手配だったと気づくと、「ああ、仏さまはいつも私のそばで法を説いてくださっていたのだ」と、心から歓喜がわき上がってくるのです。まず、素直な心で仏さまのお言葉を信じきることです。(『開祖随感』より)

【6月17日 娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂(しんれつ)して】
 娑婆世界(しゃばせかい)の三千大千の国土、地(じ)皆(みな)震裂(しんれつ)して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)あって同時に涌出(ゆじゅつ)せり。是の諸の菩薩は身(み)皆(みな)金色(こんじき)にして、三十二相・無量の光明あり。先より尽(ことごと)く娑婆世界の下、此の界の虚空(こくう)の中に在(あ)って住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声(おんじょう)を聞いて下より発来(ほつらい)せり (従地涌出品第十五)

〈現代語訳:娑婆世界全体の土地に無数の割れめができ、そのなかから、みるみる何千万億とも知れぬ菩薩が湧きだしてきました。これらの菩薩は、みんなからだが金色に輝き、三十二の吉相をそなえ、えもいわれぬ光明を放っています。この菩薩たちは、はるかなむかしから、娑婆世界の下の虚空に住していたのですが、釈迦牟尼仏が自分たちに教化を任せるとおおせられたみ声を聞いて、この世界にあらわれ出たのであります〉

《庭野開祖のことば》
 地べたから涌き出した菩薩というのは、苦しみや悩みの多い現実の生活を経験し、その中で修行を積み、そして世俗の生活をしながら高い悟りの境地に達した人びとのことをいうのです。こうして、自らの苦しみや悩みを経験し、そこをつきぬけてきた人は、ほんとうの力をもっています。そんな人こそ、人を教化する力を具えているのです。
 そういう地涌の菩薩にこの娑婆世界を任せられたということは、つまりこの世界はそこの住人であるわれわれ自身の努力によって清浄にし、平和にし、われわれ自身の手で幸福な生活をきずきあげなければならないのだ――という教えなのです。(『法華経の新しい解釈』より)

【6月16日 大悲(だいひ)の想(おもい)を起し】
 当(まさ)に一切衆生(いっさいしゅじょう)に於(おい)て大悲の想(おもい)を起し、諸(もろもろ)の如来に於て慈父の想(おもい)を起し、諸の菩薩に於て大師の想(おもい)を起すべし。十方の諸(もろもろ)の大菩薩に於て常に深心(じんしん)に恭敬(くぎょう)・礼拝(らいはい)すべし (安楽行品第十四)

〈現代語訳:一切衆生にたいしては、心からあわれみを感じ、その苦しみを除いてやろうという大きな願いを起こさなければなりません。もろもろの仏にたいしては、自分のやさしい父であるという思いをもたなければなりません。もろもろの菩薩にたいしては、自分のたいせつな先生であるという思いをもたねばなりません。十方のおおくの大菩薩にたいしては、つねに深く敬い、礼拝しなければなりません〉

《庭野開祖のことば》
 じつにだいじな、適切な教えであります。
〈当に一切衆生に於て〉から〈深心に恭敬(くぎょう)・礼拝すべし〉までは、できれば暗記してほしいものだとおもいます。(『新釈法華三部経』より)

【6月15日 我は是(こ)れ世尊(せそん)の使(つかい)なり】
 我(われ)は是(こ)れ世尊の使(つかい)なり 衆に処するに畏(おそ)るる所なし 我当(まさ)に善(よ)く法を説くべし 願わくは仏(ほとけ)安穏(あんのん)に住したまえ (勧持品第十三)

〈現代語訳:わたくしどもは、まさしく世尊のお使いでございます。それをおもえば、どのような大衆のなかにはいっても、恐れはばかることはございません。わたくしどもは、全力をつくして、正しく法華経を説きましょう。仏さま、どうぞご安心くださいませ〉

《庭野開祖のことば》
  謙虚ではありますが、自信に満ちたことばです。世尊の使いであるからには、根本真理をしっかり理解していなければなりません。その根本真理のうえに立ち、自由自在に法を説かねばならないのです。その根本真理とは何であるかといえば〈諸法空〉ということです。(中略)
 《法師品第十》に〈如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して……広く是の法華経を説くべし〉とありますが、それに随順し、世尊の代理(使い)となって法を説きひろめることをお誓いしたのが、この一行であるとされているわけです。(『新釈法華三部経』より)

【6月14日 提婆達多(だいばだった)が善知識(ぜんちしき)】
 等正覚(とうしょうがく)を成(じょう)じて広く衆生を度(ど)すること、皆(みな)提婆達多(だいばだった)が善知識(ぜんちしき)に因(よ)るが故なり (提婆達多品第十二)

〈現代語訳:こうして仏の悟りを得(え)、ひろく衆生を救うことができるのも、すべて提婆達多という善い友人のおかげなのです〉

《庭野開祖のことば》
「提婆達多が善知識」
という言葉があります。提婆達多は、修行のあり方でお釈迦さまと対立し、お命を狙うまでになってしまった弟子です。ところが、お釈迦さまは「提婆達多がいたお陰で私は悟りを得ることができたのだ」と語っておられるのです。(中略)
 人はしばしば不幸に出遭ったり、都合の悪いことにぶつかったりします。そこで嘆いたり、人を恨んだりしがちですが、苦難から逃げずに「これによって自分の足りないところを直してもらえるのだ」「自分が磨かれるのだ」と受け止めるのが「提婆達多が善知識」と拝む修行です。困難に遭ったとき「これこそ善知識」と口に出して言ってみると、心組みがまるで違ってきます。その心が活路を開くのです。
 その場では自分だけ不利な条件に置かれているように思えることも、自分を成長させてくれる仏さまのお慈悲だったと分かるときが必ずくるのです。(『開祖随感』より)

【6月13日 今正(まさ)しく是(こ)れ時なり】
 即時に釈迦牟尼仏、神通力(じんづうりき)を以(もっ)て諸(もろもろ)の大衆(だいしゅ)を接して皆(みな)虚空(こくう)に在(お)きたもう。大音声(だいおんじょう)を以て普く四衆に告げたまわく、誰(たれ)か能(よ)く此(こ)の娑婆国土(しゃばこくど)に於て広く妙法華経を説かん。今正(まさ)しく是(こ)れ時なり。如来久しからずして当(まさ)に涅槃(ねはん)に入(い)るべし。仏、此の妙法華経を以て付属(ふぞく)して在(あ)ることあらしめんと欲す (見宝塔品第十一)

〈現代語訳:釈迦牟尼仏は、ただちに神通力をもって大衆をいだきあげられ、ことごとく虚空(こくう)におとどまらせになりました。そして、大音声(だいおんじょう)をもって一同にお告げになりました。
「みんなのなかのだれが、この娑婆世界において、ひろくこの妙法華経を説いてくれるのでしょうか。いまこそ、その時は近づきつつあります。わたしは、遠からずこの世を去ろうとしています。ですから、この教えをだれかにしっかりと任せて、いつまでも存続させたいのです」〉

《庭野開祖のことば》
 お釈迦さまは、この虚空会の開始と同時に〈誰(たれ)か能(よ)く此(こ)の娑婆国土(しゃばこくど)に於て広く妙法華経を説かん〉と、早くも地上での実践を激励しておられます。まことに意義深いことであります。
 そして、法華経を付属(ふぞく)したい人をさがしておられます。付属とは、委(ゆだ)ね任せることです。しかし、お釈迦さまとしては、特定の人に任せるのでなく、すべての人にその聖業を負(お)ってもらいたいのがご本心であることは、いうまでもありません。(『新釈法華三部経』より)

【6月12日 如来の室に入り、如来の衣を著(き)、如来の座に坐して】
 若し善男子・善女人あって、如来の滅後に四衆の為(ため)に是の法華経を説かんと欲せば、云何(いかに)してか説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著(き)、如来の座に坐して、爾(しこう)して乃(いま)し四衆の為に広く斯(こ)の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是(こ)れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然(しこう)して後に不懈怠(ふけだい)の心を以(もっ)て、諸(もろもろ)の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし (法師品第十)

〈現代語訳:もし在家の男女の信仰者が、わたしの滅後に、おおくの衆生のためにこの法華経の教えを説こうとするとき、はたしてどのように説いたらいいのでありましょうか。その人たちは、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座にすわり、そうしておおくの人びとにひろくこの教えを説かなければなりません。
 如来の室というのは、一切衆生にたいする大慈悲心のことであります。如来の衣というのは、柔和であり、しかも外からの影響に動かされないつよい心であります。如来の座というのは、一切は空であり、したがって、すべての人間は仏(真如)に平等に生かされているものであるという、根本の真理であります。
 この大慈悲心と、柔和忍辱の心と、空の教えを胸にしっかりともちつづけ、つねにうまず怠らぬ意志力をもって、もろもろの菩薩および大衆のために、ひろくこの法華経を説かなければなりません〉

《庭野開祖のことば》
《法師品》の要点中の要点であります。
すなわち、末世の信仰者はどのような心がけで法華経を説かなければならないかという、その根本的な三つの心がまえが、ここに示されているのです。これを古来〈衣・座・室の三軌(さんき)〉と呼んでいます。軌とは軌道の軌で、正しい道の意味です。(『新釈法華三部経』より)

「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是(こ)れなり」と経典にあります。善人も悪人もすべて大慈悲心で包んであげて、救ってあげようというのが仏さまの心です。それには、それぞれの人の違いをちゃんと知っていて、しかも、みんなが仏性を具えているのを見て取る眼力を具えなくてはなりません。(『開祖随感』より)

「如来の衣とは柔和忍辱の心是(こ)れなり」と経典にあります。相手がかたくなになればなるほど、それを柔らかく包み込み、待ってあげることが大事なのです。相手を裁くのではなく、相手の苦しさを分かってあげて、信じて、待つ。人に生まれ変わってもらうのは、こちらの修行でもあるのです。(『開祖随感』より)

 さてその三軌の中の慈悲は感性に関するものです。柔和忍辱の心もおおむね感情の問題ですから、それを持とうと思っただけではなかなかその通りにできるものではありません。そこで、理性的な現代人にとっていちばん入りやすいのは最後の「空」という仏法の基本原理でありましょう。(中略)
 現実のわれわれの心がけとして煮つめてみますと、結局「現実の姿にこだわらない」ということに帰すると思います。すべての人は仏性をもち、久遠の仏さまに生かされている存在ですから、現象に現われている姿にこだわることなく、どの人にも同じ気持ちで対する、そういった態度こそが「如来の座」であり、それはひとりでに慈悲の心にも、柔和忍辱の心にもつながるものだと思います。(『佼成新聞』より)

【6月11日 願って此(こ)の間に生れ】
 此(こ)の人は是(こ)れ大菩薩の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就して、衆生を哀愍(あいみん)し願って此(こ)の間に生れ、広く妙法華経を演(の)べ分別するなり (法師品第十)
〈現代語訳:この人は、大菩薩としてすでに仏の悟りを悟っていながら、衆生をあわれむ心から、みずからすすんで人びとのあいだに生まれ、ひろく法華経の教えを説き、さまざまに説き分けるのであります〉

《庭野開祖のことば》
 菩薩は仏になることのできる身でありながら、浄土に生まれる果報を捨てて、衆生をあわれむがゆえに、みずから願って此の間(人間)に生まれるというのです。善悪の業によって生まれ変わるのではなく、衆生を救おうという願いと慈悲心によって生まれ変わってくるのです。これを願生といいます。
 ですから、〈自分は菩薩としてこの世に生まれて来たのだ〉という自覚を持ち、菩薩としての行ないをすることはだれにもできます。なぜなら仏・菩薩は、自分の意志のとおり、どんな身にもなり、どんな所にも生ずることができるからです。つまり、どのようにも〈化身〉することができるからです。

蓮華(使用写真)

【6月10日 阿難(あなん)は常に多聞を楽(ねが)い、我は常に勤め精進す】
 我(われ)阿難(あなん)等と空王仏(くうおうぶつ)の所に於(おい)て、同時に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心を発(おこ)しき。阿難は常に多聞(たもん)を楽(ねが)い、我は常に勤め精進(しょうじん)す。是(こ)の故に我は已(すで)に阿耨多羅三藐三菩提を成(じょう)ずることを得(え)たり (授学無学人記品第九)

〈現代語訳:わたしと阿難とは、はるかなる過去世の、空王仏という仏さまのみもとにおいて、同時に、仏の悟りを得たいという志を起こしたのであります。ところが、阿難は、できるだけおおくの教えを聞きたいとつねに願っておりましたが、わたしは聞いた教えを、いっしんに修行し、実践することにつとめたのであります。そういうちがいがありましたので、わたしのほうが早く仏の悟りにたっすることができたわけです〉

《庭野開祖のことば》
 この節には、ひじょうにたいせつなことが教えられてあります。それは、〈実践の重要性〉ということです。
〈阿難(あなん)は常に多聞を楽(ねが)い、我は常に勤め精進す〉とあります。阿難の前身である菩薩は、仏さまの教えをできるだけたくさん聞きたい、教わりたいと願っていたのにたいして、お釈迦さまの前身である菩薩は、教えを修行し、実践することにつとめられたわけです。そのちがいによって、菩提心を起こしたのは同時であったにもかかわらず、お釈迦さまのほうがずっと早く仏の悟りを得られたのであります。(『新釈法華三部経』より)

【6月9日 唯(ただ)我のみ能(よ)く之(これ)を知れり】
 羅睺羅(らごら)の密行(みつぎょう)は 唯(ただ)我のみ能(よ)く之を知れり 現に我が長子となって 以て諸(もろもろ)の衆生に示す (授学無学人記品第九)

〈現代語訳:羅睺羅(らごら)が、みずからへりくだり、かくれたところで大きな徳を積んでいることは、わたしだけがよく知っています。羅睺羅が、わたしの長子として生まれながら、黙々としてそのような密行を行なっていることは、それがそのまま、おおくの衆生にたいするよい手本であります〉

《庭野開祖のことば》
 まことに、教えの親、実の親としての情に溢れたお言葉だと、涙がこぼれるような思いがします。とくに、「羅睺羅の密行は 唯我のみ能く之を知れり」という一言をきいて、羅睺羅はどんなに嬉しかったことでしょう。密行というのは、自分は悟っていてもそれを表に現わさないで、凡愚のごとく人にたちまじりながら、自然と人を導いていくことをいうのです。(中略)
 羅睺羅は、相当高い境地に達してもそれを外に表わさず、黙々として、陰で人を導いていたのですが、そのことを、仏であり父上であるお釈迦さまだけは、何からなにまでちゃんと知っておられたのです。(『法華経の新しい解釈』より)

【6月8日 皆(みな)仏法を護(まも)らん】
 魔事あることなけん。魔及び魔民ありと雖(いえど)も皆仏法を護らん (授記品第六)

〈現代語訳:魔事すなわち仏の教えをさまたげるようなことも起こらず、魔やその仲間がいても、この国ではかえって仏の教えを護る役目をするのです〉

《庭野開祖のことば》
 この「魔」というものには、二通りあります。第一は「身内の魔」であって、われわれの正しい心をかき乱そうとする本能の衝動や邪(よこしま)な思いです。第二は「身外の魔」で、外部から加わる誘惑や圧力などです。(中略)
「魔」というものは、「身内」「身外」どちらの「魔」でも、迷いの中に生きているときはマイナスの力であるけれども、正しい道を悟ればそれがたちまちプラスの大きな力となることを教えられたものです。(『法華経の新しい解釈』より)

【6月7日 一時(いちじ)に等しく澍(そそ)ぐ】
 密雲(みつうん)弥布(みふ)して徧(あまね)く三千大千世界に覆い、一時(いちじ)に等しく澍(そそ)ぐ。其の澤(うるおい)普く卉木(きもく)・叢林(そうりん)及び  諸(もろもろ)の薬草の小根(しょうこん)・小茎(しゅきょう)・小枝(しょうし)・小葉(しょうよう)・中根(ちゅうこん)・中茎(ちゅうきょう)・中枝(ちゅうし)・中葉(ちゅうよう)・大根(だいこん)・大茎(だいきょう)・大枝(だいし)・大葉(だいよう)に洽(うるお)う (薬草諭品第五)

〈現代語訳:さまざまな草木が生えている上空に、密雲がいっぱいにひろがって世界じゅうをおおい、一時に、そしてどこにもおなじように、雨を降らせたとしましょう。うるおいの雨は、どの草、どの木、どのやぶや林、どの薬草にも平等にふりそそぎます。小さな根も、小さな茎も、小さな枝も、小さな葉も、また中ぐらいの根も、中ぐらいの茎も、中ぐらいの枝も、中ぐらいの葉も、あるいはまた大きな根も、大きな茎も、大きな枝も、大きな葉も、雨はひとしくうるおしてくれるのです〉

《庭野開祖のことば》
 雨はすべてのものの上に同じように降り注ぎますが、それでも、それぞれの草木はその種類によって成長の度合いが違います。同じ雨を受けながら、姿も形も違い、咲く花の色も、結ぶ実も異なります。
 仏さまの説かれる教えも、降る雨と同じようにただひと色なのですが、その教えを聞き、受ける側の私たちは、その機根に応じ、性質に応じて、それぞれ異なった受け止め方をします。また、職業や環境の違いによっても真理の雨の受け止め方に違いが生じるのは、ごく自然なことです。(中略)
 人それぞれの性質に応じ、天分に応じて成長し、自分なりの実を結ばせることがなによりも大切で、尊いのです。それぞれの持ち味を完全に発揮させるのが成仏です。(『開祖随感』より)

【6月6日 自然(じねん)にして至りぬ】
 我(われ)本心(もとこころ)に悕求(けぐ)する所あることなかりき。今此の宝蔵(ほうぞう)、自然(じねん)にして至りぬといわんが如し (信解品第四)

〈現代語訳:自分は、こんなになりたいなどとは、すこしも考えていなかった。それなのに、このすばらしい宝ものが、ひとりでに自分のものになったのだ。ほんとうに不思議な、ありがたいことだ〉

《庭野開祖のことば》
 とにかく、悟ろうと力んだり、あせったりするのはムダです。それより、教えをすこしずつでもいいから、たえず実践してゆくことです。そうしているうちに、自然と人格が磨かれてゆき、光がでてきます。自分は光っているつもりではなくても、はたからみれば、美しい輝きを発しているのです。悟りとか、人格の完成というものはこんなものなのです。〈自然(じねん)にして至りぬ〉―じつにすばらしい一句です。(『新釈法華三部経』より)

【6月5日 貪欲これ本(もと)なり】
 諸苦の所因(しょいん)は 貪欲これ本(もと)なり 若(も)し貪欲を滅すれば 依止(えし)する所なし (譬諭品第三)

〈現代語訳:すべての苦の原因は何であるかといえば、貪欲こそじつにその根本であります。もし貪欲を滅しさえすれば、苦の依(よ)りどころがなくなるわけですから、ひとりでに消滅してしまうのです〉

《庭野開祖のことば》
 じつに重大な一句です。この一句を心に銘じているだけでも、どれぐらい生きかたがちがってくるか、はかりしれないものがあります。(『新釈法華三部経』より)
 人の不幸の原因は貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒にあります。さらに突き詰めると「諸苦の所因は 貪欲これ本なり」で、貪欲が苦の根源であることが分かります。自分さえよければ、という自己中心、あり余る物に囲まれながら、もっともっとと欲をつのらせるその心を、人さまの幸せを願い、人さまに施す心に変えることで、その苦が喜びに変わるのです。(『開祖随感』より)

【6月4日 此の舎(いえ)已(すで)に大火に焼かる】
 此(こ)の舎(いえ)已(すで)に大火(たいか)に焼かる。我及び諸子若(も)し時に出(い)でずんば必(かなら)ず焚(や)かれん。我今当(まさ)に方便を設(もう)けて、諸子等(しょしら)をして斯(こ)の害を免るることを得(え)せしむべし (譬諭品第三)

〈現代語訳:現実にこの家は大火に焼かれているのだ。子どもたちを救いださなければ、かならず焼け死んでしまう。こうなれば、方便をもって救ってあげるほかはない〉

《庭野開祖のことば》
 物があふれ、はなやかに繁栄しているようにみえるいまの社会も、豊かさや便利さを飽くことなく追い続けると、どんどん法からはずれ、破滅の道をたどりかねません。
 法華経には、燃えさかる家の中で、その火に気づかずに遊びほうけている子どもたちの話が出てきます。その子どもたちに仏さまは、「外には、すばらしい車があるぞ」と呼びかけて大火から救いだされます。幸せを求めているつもりで、自分がどこへ向かっていくか気づかずにいる現代人も、“火宅の子”と言えましょう。その人たちへの呼びかけは、物の豊かさや便利さを上回る真の豊かさ、本当の喜びを知ってもらうことです。(『開祖随感』より)

【6月3日 大歓喜を生じて】
 復(また)諸(もろもろ)の疑惑なく 心に大歓喜(だいかんぎ)を生じて 自ら当(まさ)に作仏(さぶつ)すべしと知れ (方便品第二)

〈現代語訳:みなさんがもろもろの疑いをすて、真実の法を知るおおいなるよろこびをおぼえるならば、みなさんもまた将来においてかならず仏となることができます。そのことを、ハッキリとしらなければなりません〉

《庭野開祖のことば》
 どんなに遠い外国に出かけても、また、どんな多忙なときも、私はご供養を欠かしたことがありません。それは会の規則だからやらなくてはならない、といった義務感からではありません。
 こうして、きょう一日生かされ、善いことを心に向けさせていただけるその仏恩がありがたく、もったいなくて、ご供養せずにはいられないのです。(中略)
『法華経』の数多くのお言葉の中でも私が好きな言葉の一つに、「心に大歓喜を生じて 自ら当(まさ)に作仏(さぶつ)すべしと知れ」という一偈があります。
 信仰でも大事なのは、自ら思い立って人さまのお役に立てる喜び、その感動です。この大歓喜こそが仏の悟りにいたる原動力なのです。(『開祖随感』より)

【6月2日 我が如く等しくして】
 我(われ)本(もと)誓願を立てて 一切の衆をして 我(わ)が如く等(ひと)しくして異(ことな)ることなからしめんと欲しき (方便品第二)

〈現代語訳:仏の悟りを成就したとき、わたしは、一切の人間をわたしと同じような仏の悟りに導きたい、みんなをわたしとちがうところのない人間に教え育てたいという誓願を立てました〉

《庭野開祖のことば》
 尊いおことばです。仏さまのお心はこの一偈に尽き、仏道の目的もこの一偈につきているといってもいいでしょう。
 とにかく、お釈迦さまは、「わたしをみよ、わたしのようになれ」と、生きた手本を示しておられるのです。(中略)このお釈迦さまのこの大誓願を思えば、もしわれわれが精進を怠ったり、邪道へそれたりしたら、それがどんなにもうしわけない所行であるかということを、しみじみと感ぜずにはいられません。われわれがお釈迦さまの弟子であり、子であるかぎり、その大誓願をふみにじるようなことをして、お釈迦さまを悲しませてはならないのです。(『新釈法華三部経』より)

【6月1日 決定して大乗を説く】
 未(いま)だ曽(かつ)て汝等(なんだち)  当(まさ)に仏道を成ずることを得(う)べしと説かず  未だ曽(かつ)て説かざる所以(ゆえん)は  説時未だ至らざるが故なり  今正(まさ)しく是れ其の時なり  決定(けつじょう)して大乗を説く (方便品第二)

〈現代語訳:わたしは、いままでに、「あなたがたは、かならず仏となることができるだろう」と説いたことはありませんでした。なぜかといえば、まだ説くべき時期ではなかったからです。しかし、いまこそまさにその時期です。わたしは、いまこそ深く決心して、この最高の教えを説くのです〉

《庭野開祖のことば》
 大事な一節です。みんな仏になれる!……この大宣言を、この《法華経》においてはじめて発表されるのです。もちろん、根拠なくそうおっしゃるのではありません。理論をぬきにしておっしゃるのでもありません。人間すべてが平等に仏性をもっているのだという真実にもとづき、それを十分納得がゆくよう、さまざまな角度から、くりかえしくりかえしお説きになるのです。《法華経》が〈授記経〉だといわれるゆえんはここにあり、また大乗中の大乗であるゆえんもここにあるのです。(『新釈法華三部経』より)

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