💎 庭野日敬開祖「一日一言」~毎日のことば~(令和3年8月)

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 立正佼成会を創立した庭野日敬開祖の珠玉のおことばを「一日一言」と題して、毎日更新し、1つずつご紹介していきます。今月8月も引き続き《『法華経』の名句とその開祖さまのお言葉》をテーマにお届けします。
〈*経典の訓読ならびに現代語訳は、『新釈法華三部経』(庭野日敬著)によります(一部を除く)〉

【8月31日 懺悔(さんげ)の法を修習することあらん時】
 仏(ほとけ)、阿難(あなん)に告(つ)げたまわく、未来世に於(おい)て、若(も)し此(かく)の如き懺悔(さんげ)の法を修習することあらん時、当(まさ)に知るべし、此(こ)の人は慚愧(ざんき)の服を著(き)、諸仏に護助せられ、久しからずして当に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成(じょう)ずべし (仏説観普賢菩薩行法経)
〈現代語訳:そこで仏さまは、阿難にむかって、最後のしめくくりのおことばをおのべになりました。「将来の世の中において、もしこのような懺悔の法を習い修めるものがあったならば、その人はみずからを反省するという美しい徳を身につけ、諸仏に守り助けられて、長い年月を経ることなく仏の悟りを成就することができましょう」〉
《庭野開祖のことば》
「懺悔とは、つまり大乗の教えを学び、実践するところにある。いいかげんなところで自分と妥協せず、あくまでも心の迷いや汚れをひとつひとつぬぐいさり、自分の仏性を磨きあげていくところにある。そして、その極致は、法華経で教えられた諸法実相を悟るところにあるのだ。また、人のため世のためにつくす菩薩行にこそ、懺悔の実践があるのである」ということになりましょう。(『新釈法華三部経』より)

 これで、「法華三部経」はすべて終わりました。(中略)くりかえして深く読んでいるうちに、「法華三部経」は、その日その場からわれわれを救いへ導いてくださる教えであることがわかってくるはずです。そうして、その中のただ一つの教えからでもいい、ほんのささいなことからでもいいから、実行することがかんじんです。(『法華経の新しい解釈』より)

【8月30日 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え】
 一切(いっさい)の業障海(ごうしょうかい)は 皆(みな)妄想(もうぞう)より生ず 若(も)し懺悔(さんげ)せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え 衆罪(しゅざい)は霜露(そうろ)の如し 慧日(えにち)能(よ)く消除(しょうじょ)す (仏説観普賢菩薩行法経)
〈現代語訳:一切の業障はみな、ありもしないことをあるとおもう妄想から起こるのですから、もし自分の業障を懺悔しようとおもうならば、静かに坐って、諸法の実相を深く思念することが第一です。もろもろの罪というものは、ちょうど霜や露のような仮りのあらわれにすぎないのであって、実相を見る智慧の光に会えば、たちまち消滅してしまうのです〉
《庭野開祖のことば》
 じつに美しい、そして尊い偈句です。短いことばのなかに、仏教の神髄が尽くされています。この一句こそ、ぜひ暗記しておきたいものであります。

〈業障は妄想より生ず〉海のようにひろがり満ちている人間の一切の業(行為)のあやまちも、それに原因する心身のさまざまな障りも、すべて妄想から起こるものである……と、ハッキリいいきってあります。
 妄想というのは、まえからたびたび説いてきたように、真実でないものを真実であるとみることで、何事も自分中心に考え、ものごとを差別してみることをいいます。つまり、無明(無智)から生ずる転倒(てんどう)したものの考えかたと、それにしたがって起こるわがままな心をいうのです。

〈端坐して実相を思え〉ですから、自分の業障を完全にとりのぞこうとおもうならば、静かにすわって邪念を去り、諸法の実相に思いをこらさなければならない……と教えられるのです。

〈慧日よく消除す〉罪(業障)というものは、もともと実在するものではなく、自分の仏性のまわりをおおっている霧のようなものです。あるいは草の葉におく露や霜のようなものです。人間の迷いから生じた仮りのあらわれにすぎません。ですから、実相を見る智慧の太陽が射せば、たちまち消え失せてしまうというのです。(中略)

〈一切の業障海は〉にはじまるこの一偈こそ、法華三部経の総しめくくりであるといっていいでしょう。(『新釈法華三部経』より)

【8月29日 唯(ただ)釈迦牟尼仏のみ】
 常に夢に過去の七仏(しちぶつ)を見たてまつらんに、唯(ただ)釈迦牟尼仏のみ其(そ)れが為(ため)に法を説きたまわん (仏説観普賢菩薩行法経)
〈現代語訳:夢のなかにも過去の世の七仏のおすがたを見たてまつるようになりますが、そのなかで釈迦牟尼仏のみが、その人のために法を説かれるでありましょう〉
《庭野開祖のことば》
 ここはひじょうにたいせつなところです。過去の世の諸仏も尊い仏さまにはちがいないのですが、現実世界のわれわれに教えを説いてくださったのは釈迦牟尼如来だけです。お釈迦さまは、過去七仏に共通した教えとして〈諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)〉といういわゆる〈七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)〉を説いておられますが、これも、お釈迦さまがお説きになったからこそ世に出た教えなのです。(『新釈法華三部経』より)

 限りない過去から存在する真理(妙法)も、釈迦牟尼如来の教えを通じてこそ、われわれは知ることができるのです。ですから、われわれはただひたすら釈迦牟尼如来の教えに帰依すればよいのであって、そうすれば、自動的に他の諸仏(真理のさまざまな現われ)にも帰依することになるのです。ここには、その意味が深く含まれていることを読みとらなければなりません。(『法華経の新しい解釈』より)

【8月28日 目を開(ひら)けば則ち失う】
 目を閉(と)ずれば則(すなわ)ち見、目を開(ひら)けば則ち失う (仏説観普賢菩薩行法経)
〈現代語訳:目を閉じて静かに精神を集中すれば、たしかにそれを自覚することができるけれども、目をひらいて現実の世界を見わたすと、もう仏さまのおすがたも、その説かれる法も、どこか遠くへ霞んでしまう〉
《庭野開祖のことば》
 頭でもは仏法の真理は絶対に正しいと分かっていても、目の前の現実に対して、果たしてこの現実を変える力を仏法が持っているのだろうか、と疑いにとらわれてしまうのは、「目を閉ずれば則ち見、目を開けば則ち失う」と『懺悔経』(仏説観普賢菩薩行法経)にあるとおりではないでしょうか。
 そうした迷いに対して『懺悔経』は「我(われ)濁悪(じょくあく)の眼(まなこ)なり、是の故に見たてまつらず」と懺悔せよと教えています。現象の表面だけを見て、その奥の実相を見ようとしないのが濁悪の眼です。真実の目を見開いて、仏さまがいつもお見守りくださり、ご守護くださっているのを信じて現実に対さなくてはなりません。(『開祖随感』より)

【8月27日 心意質直(しんにしちじき)にして】
 是(こ)の人は心意質直(しんにしちじき)にして、正憶念(しょうおくねん)あり、福徳力(ふくとくりき)あらん (普賢菩薩勧発品第二十八)
〈現代語訳:この人は心に飾りけがなく、まっすぐで、ひとりでに真理(妙法)に合った生きかたをするでしょう。また、ものの考えかたが正しく、つねに真理に一致しているでしょう。しかも、みずから徳をもっておおぜいの人をしあわせにする力をもつことでありましょう〉
《庭野開祖のことば》
 ここは、ひじょうにたいせつなところです。
〈心意質直にして〉というのは、この文字どおりの意味は、心に飾りけがなくまっすぐであることですが、その奥をさぐってみますと、心に飾りけがなくまっすぐなことは、つまり〈真理(妙法)にたいして素直である〉ということになります。
 さらに、もう一歩つきすすんで考えてみますと、真理にたいして素直な心をもつといっても、一念一念をハッキリ意識し、それに随順するということは、事実上不可能なことです。隣の人が「おはよう」といった。それにたいして、どう答えるのが真理に合うだろうかと考えたあげく「おはよう」とあいさつを返す…といったようなことは不可能です。「おはよう」と声をかけられれば、ほとんど無意識のうちに「おはよう」と返すのです。
 このように、一念一念に真理をおもい、それに随順することが不可能である以上は、この〈心意質直にして〉というのは、〈考えることがひとりでに真理に合う〉という境地でなければなりません。(中略)
〈正憶念あり〉この場合は、正しく記憶するという意味ではなく、ものの考えかたが正しく、つねに真理に一致することをいうのです。まえの〈心意質直にして〉というのが、ひとりでに、無意識のうちに真理と合致してしまうのであったのにたいして、このほうは、チャンと意識して考えることが、すべて真理に合うというのです。
 われわれの精神生活がつねに真理と合致するというのですから、これまたひじょうにありがたい、大乗的な救われかたであるといわなければなりません。
 しかも〈福徳力あらん〉とあるように、たんに自分が救われるばかりでなく、他を救う力もそなわってくるというのです。おおくの人びとをしあわせにする、徳の力をもつようになるわけです。すなわち、大乗的な救いの実践者となるわけです。(『新釈法華三部経』より)

【8月26日 則ち釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を見るなり】
 普賢(ふげん)、若(も)し是(こ)の法華経を受持し、読誦し、正憶念(しょうおくねん)し、修習し、書写することあらん者は、当(まさ)に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を見るなり、仏口(ぶっく)より此(こ)の経典を聞くが如し (普賢菩薩勧発品第二十八)
〈現代語訳:普賢よ。もしこの法華経の教えを受持し、読誦し、正しく記憶し、くりかえし習い、あるいは書き写すものがあったならば、その人はすなわち釈迦牟尼仏を見る人であります。そして、釈迦牟尼仏自身の口から直接説法を聞く実感をおぼえるでありましょう〉
《庭野開祖のことば》
〈釈迦牟尼仏を見るなり〉
…お釈迦さまの悟りのすべてが、このお経のなかにそそぎこんであるのですから、このお経を信じ、一心に学ぶものは、お釈迦さまの滅後においても、直接お目にかかるのと同然だというのです。お釈迦さまと共にいることを自覚することができるわけです。まことにだいじな一句であります。

〈仏口より此の経典を聞くが如し〉…お釈迦さまご自身の口からこの教えを聞くのと同然であり、そのような実感をおぼえるであろうというわけです。これも、たいせつなおことばです。(『新釈法華三部経』より)

【8月25日 我当(まさ)に之(これ)を教えて与共(とも)に読誦し】
 其(そ)の人、若(も)し法華経に於て一句・一偈をも忘失(もうしつ)する所(ところ)有(あ)らば、我当(まさ)に之(これ)を教えて与共(とも)に読誦し、還(かえ)って通利せしむべし (普賢菩薩勧発品第二十八)
〈現代語訳:もしその人が、法華経の一句または一偈を忘れてしまうようなことがあれば、わたくしはそれを教えてあげ、いっしょに読誦して、その真意に通達するようにしてやりましょう〉
《庭野開祖のことば》
 一偈一句を忘れてしまったらそれを教えてあげる…というのは、むろんそのままの意味ではなく、「いくら考えても教えの真意がつかめないときは、まず〈実践〉ということに思いをめぐらしてみれば、かならずその真意に到達することができる」という意味です。
 なんどもくりかえすように、法華経は実践の教えですから、実践ということを忘れてその深遠な教理の山奥へ踏みこんでゆきますと、道に迷ってしまうことが往々にしてあります。理からばかりつきつめてゆきますと、ともすればその幽玄・微妙さに茫然(ぼうぜん)となってしまうからです。
 そんなときは、静かに立ち止まって、「法華経はせんじつめれば、われを救い、人を救い、世を救う実践の教えだったのだな」とおもいかえしてみると、たちまち目の前の霧が晴れて、大きな道があらわれてくるのです。(『新釈法華三部経』より)

【8月24日 六牙(ろくげ)の白象王(びゃくぞうおう)に乗って】
 是(こ)の人若(も)しは行き若しは立って此(こ)の経を読誦せば、我爾(そ)の時に六牙(ろくげ)の白象王(びゃくぞうおう)に乗って、大菩薩衆と倶(とも)に其の所に詣(いた)って、自ら身を現じて供養し守護して其(そ)の心を安慰(あんに)せん (普賢菩薩勧発品第二十八)
〈現代語訳:その人が、もしくは立ちながら、もしくは歩きながらでもこの経を読誦しているならば、わたくし(普賢菩薩)は六牙の白象に乗って、大菩薩衆とともにその場所にあらわれ、その人の修行に感謝し、修行がりっぱに行なわれるように守り、その心を安らかにしてあげましょう〉
《庭野開祖のことば》
 〈六牙の白象王に乗って〉…これは、文殊菩薩が獅子に乗っているのと対照をなすものです。
 獅子というのは〈真理(妙法)〉の象徴です。獅子は百獣の王であって、すべてのけものを支配し、畏れはばかるものがありません。それゆえ、森の中を自由自在に歩きまわっています。そのように、真理はすべてを支配するものであって、なにものにも支配されません。動かされません。この宇宙の王であり、宇宙のあらゆる現象のうえに、自由自在にあらわれるものであります。
  それにたいして、象は〈実践〉の象徴です。あの巨体がズシリズシリと進んでいくところ、それを妨げることのできるものはありません。ゆくてをさえぎる大木があれば、押したおして進みます。岩石があれば、ころがして除きます。流れや池を渡るときも、水底をしっかと踏みつけて、歩いてゆきます。ですから、象は〈徹底(底まで徹する)した実践〉の象徴ともいわれるのです。
 しかも、普賢菩薩の乗る象は、純白の象であります。純白であるということは、普賢菩薩の自利・利他の行が、ただただ衆生済度のためであって、いささかの我もなく、なんらの報いをも求めぬ純粋なものであることを示しています。
 また、六本の牙というのは、六波羅蜜を意味しています。六波羅蜜は、いうまでもなく、菩薩行すなわち自利・利他の実践のための六つの軌範を示した教えであります。
 このように、〈いかなる妨害をもうち払ってすすむ法の実践者・法の守護者〉である普賢菩薩は、いかにもそれにふさわしい、六本の牙をもつ白象に乗って出現するわけであります。(『新釈法華三部経』より)

【8月23日 大身(だいしん)を現じて虚空(こくう)の中に満ち】
 或(あるい)は大身(だいしん)を現じて虚空(こくう)の中に満ち、而(しか)も復(また)小(しょう)を現じ、小にして復(また)大(だい)を現じ、空中に於て滅(めっ)し、忽然(こつねん)として地に在り、地に入ること水の如く、水を履(ふ)むこと地の如し。是(かく)の如き等(ら)の種種の神変(じんべん)を現じて、其(そ)の父の王をして心浄(きよ)く信解(しんげ)せしむ (妙荘厳王本事品第二十七)
〈現代語訳:また、空いっぱいになるような大きなからだになったかとおもうと、豆粒のように小さくなります。空中でパッと姿を消したかとおもうと、地面にスーッとあらわれてきます。まるで水が浸みこむように地中にはいっていくかとおもうと、まるで地面を歩くように水の上を歩くのです。このようなさまざまな奇跡を演じてみせましたので、父の王の心はすっかり清浄になって、子どもたちの神通力を素直に認めたのでありました〉
《庭野開祖のことば》
『法華経』の「妙荘厳王本事品」では、浄蔵(じょうぞう)・浄眼(じょうげん)という二人の王子が、父王の前でさまざまな不思議を演じて見せて、仏さまの教えに親を導く話が語られます。二人の王子は、自分の姿を瞬時にして巨大な姿に変えて見せたかと思うと、たちまち豆粒のような小さな姿に身を変える、といった不思議を見せます。そんなことができるものだろうか、と考えられるかもしれません。
 しかし、それはいまの時代でも同じなのです。子どもがいくつになっても親の目には幼い子どもに見えるのですが、そのわが子が、真実の生き方について堂々と信念を述べるようになったとしたら、どうでしょう。かと思うと、これまで親に反発ばかりしていたのが、素直に親の言葉を「はい」と聞くように変わったら、まさに信じられない奇跡と見えるのではないでしょうか。それが「大身を現じ、また小を現ずる」姿です。(『開祖随感』より)

【8月22日 一四句偈(いっしくげ)を受持(じゅじ)し、読誦(どくじゅ)し解義(げぎ)し説(せつ)の如く修行せん】
 若(も)し善男子・善女人能(よ)く是(こ)の経に於(おい)て、乃至(ないし)一四句偈(いっしくげ)を受持し、読誦し解義し説(せつ)の如く修行せん、功徳甚だ多し (陀羅尼品第二十六)
〈現代語訳:信仰深い男女が、もしこの経の四句偈のひとつでも信じ、心にたもち、読誦し、その意味を理解し、そして教えのとおり修行するならば、その功徳はまえにいったものよりもはるかにおおいのです〉
《庭野開祖のことば》
〈四句偈〉…四句でひとつの詩をなしている教え。たとえば、つぎの〈七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)〉などがそれです。 

 諸悪莫作(しょあくまくさ)もろもろの悪を作さず
 衆善奉行(しょぜんぶぎょう)もろもろの善を奉行し 
 自浄其意(じじょうごい)自ら其の意を浄くす
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)是れ諸仏の教えなり

 八百万億那由他恒河沙等(はっぴゃくまんのくなゆたごうがしゃ)の諸仏を供養したてまつったものよりも、たったひとつの四句偈を受持し、読誦し、解義(意義を理解)し、説のごとく修行するもののほうが、はるかにおおい功徳を得るというのは、まことに合理的な教えです。仏法においては、まずなによりも正法を受持し、それをくりかえして学び、しかもそれを実践することが第一であることを、ここにハッキリと教えられているわけです。(『新釈法華三部経』より) 

【8月21日 油を圧(お)す殃(つみ)】
 油を圧(お)す殃(つみ)  斗秤(としょう)をもって人を欺誑(ごおう)し  調達(ちょうだつ)が破僧罪の如く (陀羅尼品第二十六)
〈現代語訳:油を虫ごとしぼる罪や、斗(ます)や秤(はかり)をごまかす罪や、提婆達多が教団の和合を破ったのとおなじような大罪であります〉
《庭野開祖のことば》
〈油を圧(お)す殃(つみ)〉…これは現代人にはわかりにくいことです。油を搾るとき、原料の木の実や草の実などを腐らせると、虫が湧いてきます。それをそのまま搾れば、虫の体液が加わって量が増すために、儲けが大きくなるわけです。そのかわり、虫も殺しますし、油の味もわるくなります。これは、むかしのインドではひじょうによくないこととされていたらしいのです。(『新釈法華三部経』より)
 立正佼成会を始めたときに恩師の新井助信先生が、「いっぺんに油をたくさん採ろうとして、万力(まんりき)で一挙に菜種(なたね)を押しつぶすようなことをしてはいけませんよ」と、アドバイスしてくださいました。これは「陀羅尼品」に出てくる「油を圧(お)す殃(つみ)」の教えです。ゆっくり時間をかけて搾(しぼ)らないと、よい油はできないのですね。
 人も同じで、自分の理論はぜったいに間違いがないのだから、みんなを同調させなくては、とあせりすぎると、こちらの本意が伝わりません。自分だけ孤立することになってしまいます。
 人が十人いれば、考え方も十色です。自分の考えを分かってくれないと腹を立てるほうがおかしいのですが、「自分は正しいことをしているのだ、善いことをしているのだ」と思い込むと、同調しない人が許せなくなってしまうのです。(『開祖随感』より)

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【8月20日 此(こ)の娑婆世界に遊び】
 無尽意(むじんに)菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊(せそん)、観世音菩薩は、云何(いかに)してか此(こ)の娑婆世界に遊び、云何(いかに)してか衆生の為(ため)に法を説く、方便の力其(そ)の事(じ)云何(いかん) (観世音菩薩普門品第二十五)
〈現代語訳:無尽意菩薩は、仏さまにおたずねもうしあげました。「世尊。観世音菩薩はどのようにしてこの娑婆世界に自由自在に出現され、どのようにして衆生のために法をお説きになるのでしょうか。その方便力のあらわれは、どんなものでございましょうか〉
《庭野開祖のことば》
 ただがむしゃらに生活のために働くのではなく、ときには自分を見つめる「ゆとり」が大切です。ご法精進でも「娑婆世界に遊び」と「観世音菩薩普門品」にあるように、明るい指導、和やかな心の「ゆとり」をもった精進でこそ、長続きする常精進になると思うのです。(『開祖随感』より)

【8月19日 即時(そくじ)に其(そ)の音声(おんじょう)を観じて】
 若(も)し無量百千万億(ひゃくせんまんのく)の衆生あって諸(もろもろ)の苦悩(くのう)を受けんに、是(こ)の観世音菩薩を聞いて一心に名を称(しょう)せば、観世音菩薩、即時(そくじ)に其(そ)の音声(おんじょう)を観じて、皆(みな)解脱(げだつ)することを得(え)せしめん (観世音菩薩普門品第二十五)
〈現代語訳:どんなにおおくの衆生がもろもろの苦悩を受けようとも、この観世音菩薩の功徳の偉大さを聞き知って、一心にその名を称えれば、観世音菩薩はそくざにその声を聞きとり、その実相を明らかに見とおして、すべてのものを苦悩からのがれさせてくださるから、観世音と名づけられたのです〉
《庭野開祖のことば》
 観世音菩薩は、助けを求める人の声を聞くと、その人その人にふさわしい姿で身を現わされて、隣に寄り添い、「つらいね。でも大丈夫なんだよ」とおっしゃってくださいます。相手の心に寄り添うことさえできれば、なにも言わなくても、こちらの思いは伝わるのです。(『開祖随感』より)
 観世音菩薩の観の字は、ものごとを判然と見分けることであり、世音とは世の人びとの声、つまり大衆の悩みや願いのことです。私たちも観世音菩薩のように、その人その人の悲しみを聞き取り、相手に応じて三十三身を現じて法を説かなくてはならないのです。(『開祖随感』より)

【8月18日 所得の福徳(ふくとく)無量無辺なり】
 汝(なんじ)能(よ)く釈迦牟尼仏の法の中に於て、是(こ)の経を受持(じゅじ)し読誦(どくじゅ)し思惟(しゆい)し、他人の為(ため)に説けり。所得の福徳(ふくとく)無量無辺なり (薬王菩薩本事品第二十三)
〈現代語訳:そなたは釈迦牟尼仏の教えにしたがって妙法蓮華経をよく信じ、心にたもち、読み、そらんじ、思索し、そして他人のために説きました。そなたの得る福徳は無量無辺でありましょう〉
《庭野開祖のことば》
 確かに、これまでお経もあげたことがなかったという人が、一念発起して毎日お経をあげるようになったら、それなりの功德は頂戴できるのですが、そこからもう一歩踏みだして経典に説かれているとおり実行すると、さらに大きな功德がいただけるのです。ただしその功德は、「是(こ)の経を受持(じゅじ)し読誦(どくじゅ)し思惟(しゆい)し、他人の為(ため)に説けり。所得の福徳(ふくとく)無量無辺なり」とあるように、この法を受持し、読誦する者、行ずる者、というように必ず条件がついています。(中略)
 真の功德は法門を行じるなかにあるのです。(『開祖随感』より)

【8月17日 因縁(いんねん)及び次第(しだい)を知って】
 如来(にょらい)の滅後(めつご)に於(おい)て 仏(ほとけ)の所説(しょせつ)の経(きょう)の 因縁(いんねん)及び次第(しだい)を知って 義(ぎ)に随(したが)って実(じつ)の如く説(と)かん (如来神力品第二十一)
〈現代語訳:わたしが入滅したのちの世において、わたしが説いた教えが、どういう因縁で、またどういう順序で説かれたかということをよく知り、わたしの説いたとおりの意味にしたがって、その真義を説くでありましょう〉
《庭野開祖のことば》
『法華経』に「油を圧(お)す殃(つみ)」という言葉が出てきます。菜種を樽に入れてゆっくり重しを加えると、きれいな、ねっとりとした油が搾(しぼ)り出されてきます。ところが一気に搾ろうと万力(まんりき)で搾るようなことをすると、いい油はとれないのです。「因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん」(「如来神力品」)と教えられているように、相手の理解力に応じ、順序に従って説かなくてはなりません。
 いつも周囲の人の生活を見守ってあげて、出合う問題に応じて、「なるほど」と分かるように具体的に教えてあげる。それを聞いて、心の底から納得できた人が一人誕生すると、それがどんどんまわりに及んでいくのです。(『開祖随感』より)

【8月16日 妙法蓮華・教菩薩法(きょうぼさつほう)・仏所護念(ぶっしょごねん)と名くるを説きたもう】
 国あり娑婆(しゃば)と名(なづ)く、是(こ)の中に仏います、釈迦牟尼と名(なづ)けたてまつる。今諸(もろもろ)の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の為(ため)に、大乗経の妙法蓮華・教菩薩法(きょうぼさつほう)・仏所護念(ぶっしょごねん)と名くるを説きたもう。 (如来神力品第二十一)
〈現代語訳:その国に、おひとりの仏さまがいらっしゃいます。お名まえを釈迦牟尼ともうしあげます。その釈迦牟尼仏は、いま、もろもろの菩薩たちのために、妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念という大乗の教えをお説きになりました〉
《庭野開祖のことば》
 私たちが、ご供養をしたり、説法をしたりするときに、おたすきをかけます。そのおたすきには「教菩薩法 仏所護念」と書かれています。
「教菩薩法」とは、私が持(たも)っているこの教えは、ただ個人の救われを望むのではなく、すべての衆生の救われをめざす菩薩のための教えである、という意味です。そして「仏所護念」とは、仏さまがいちばん大事な奥義として護(まも)り念じてこられた法という意味なのです。
 おたすきをかけるとき、その至高の法を受持するにふさわしい自分んであるかどうか、常に自分を振り返ってみなくてはなりません。
 いつも初心に帰ることを忘れないことほど信仰者にとって大切なことはない、と私は思うのです。(『開祖随感』より)

【8月15日 避(さ)け走り遠く住して、猶(な)お高声(こうしょう)に唱えて言わく】
 常(つね)に罵詈(めり)せらるれども瞋恚(しんに)を生ぜずして、常に是(こ)の言(ことば)を作(な)す、汝(なんじ)当(まさ)に作仏(さぶつ)すべしと。是(こ)の語(ことば)を説く時、衆人或(あるい)は杖木(じょうもく)・瓦石(がしゃく)を以(もっ)て之(これ)を打擲(ちょうちゃく)すれば、避(さ)け走り遠く住して、猶(な)お高声(こうしょう)に唱えて言わく、我敢(あえ)て汝等(なんだち)を軽(かろ)しめず、汝等皆(みな)当(まさ)に作仏(さぶつ)すべしと (常不軽菩薩品第二十)
〈現代語訳:長い年月のあいだ罵(ののし)られどおしでしたが、その菩薩比丘(ぼさつびく)はけっして怒りません。あいかわらず、人さえ見れば、「あなたは仏になるお方です」というのでした。そのことばの真意のわからない群衆は、すっかり腹を立て、杖や棒でたたいたり、石や瓦を投げつけたりするのでした。すると、その菩薩比丘は走って逃げ、遠くのほうから、なおも「わたしには、どうしてもあなたがたを軽んずることができません。あなたがたは、かならず仏になる人たちだからです」と、大声に唱えるのでした〉
《庭野開祖のことば》
 ここから二つの教えをくみとることができます。
 その第一は、人びとが常不軽の身体に暴力を加えようとしたとき、常不軽は逃げていったことです。
 杖で打たれて腕が折れても、石が当たって額(ひたい)が割れても、常不軽はすこしも動かなかった―というほうが、あるいは日本人には受けるかもしれません。しかし、それは「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」ということを誤って受け取っている、かたよった気持によるものといえましょう。
 不惜身命ということをほんとうに理解しておれば、法が第一であるということに徹しられるはずです。法が第一であれば、なんとかして法を守り、法を育て、法をひろめていかなければならぬということを第一に考えますから、逃げるのは恥だというようなちっぽけな考えはケシ飛んでしまいます。できるだけ生き延びて、いつまでも根気よく法を説こう―という心が確固としていますから、肉体が危険にさらされたら、さっさと逃げていくのです。(中略)
 もう一つの大切な教えは、常不軽菩薩は肉体に対する迫害からは逃げまわっていたけれども、信念は絶対に曲げなかった、正法(しょうぼう)はあくまでも捨てなかったということです。ここが「軟弱(なんじゃく)」と「柔輭(にゅうなん)」のちがう点です。軟弱な精神の持主は、すこしばかりの外部の圧力が加われば、簡単に信念を曲げたり、捨ててしまったりします。ところが真の信仰者は、どんなことがあってもかならず信念をつらぬきます。正法はどこまでも守りぬきます。柔輭な態度をとるのは、あくまでも正法を守りぬくためにほかならないのです。
 常不軽菩薩は、あっちへ逃げ、こっちへ逃げしながらも、「仏性礼拝」という菩薩行は、あくまでも止めませんでした。そして、ついにみんなの心の中の仏性の芽を吹き出させたのです。真の勇者とは、このような人をいうべきでありましょう。(『法華経の新しい解釈』より)

【8月14日 亦復(またまた)故(ことさ)らに往(ゆ)いて】
 乃至(ないし)遠く四衆(ししゅう)を見ても、亦復(またまた)故(ことさ)らに往(ゆ)いて礼拝讃歎(らいはいさんだん)して、是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、我(われ)敢(あえ)て汝等(なんだち)を軽(かろ)しめず、汝等(なんだち)皆(みな)当(まさ)に作仏(さぶつ)すべきが故(ゆえ)にと (常不軽菩薩品第二十)
〈現代語訳:しかも、遠くのほうにそのような人びとがいるのを見ると、わざわざ近づいていって礼拝し、『わたしは、けっしてあなたがたを軽んじません。あなたがたはみんな仏になる人ですから……』といって賛嘆するのでした〉
《庭野開祖のことば》
 この品の初めのほうにあった大切なことばを思い出すことにしましょう。それは、「乃至(ないし)遠く四衆(ししゅう)を見ても、亦復(またまた)故(ことさ)らに往(ゆ)いて礼拝讃歎(らいはいさんだん)して……」という一節です。「遠く四衆(ししゅう)を見ても」「故(ことさ)らに往(ゆ)いて」ということが、大切なのです。なぜ大切かといえば、人に法を説くばあいにもこの精神が必要だからです。すなわち、むこうから聞きにきたら教えてやるとか、ご縁があったら説いてあげるというような、消極的な態度ではなく、遠くにいる人に対しても、わざわざ(故らに)こちらから出かけていって、法を説いてあげるほどの積極性がなければなりません。それが、ほんとうに人を救ってあげようという菩薩の心です。
 常不軽はそれをあえて行ないました。最初は、いらぬおせっかいだときらわれたり、怒りを買ったりしましたが、まごころはついに多くの人びとに通じたのです。(『法華経の新しい解釈』より)

【8月13日 以(もっ)て仏道に回向(えこう)せん】
 是(かく)の如き等(ら)の布施 種種(しゅじゅ)に皆(みな)微妙(みみょう)なる 此の諸(もろもろ)の劫数(こっしゅ)を尽くして 以(もっ)て仏道に回向(えこう)せん (分別功徳品第十七)
〈現代語訳:さまざまなりっぱな布施を、長い年月のあいだしばらくも欠かさず行ない、その布施が仏道のひろまるのに役立つようにと念じたとしましょう〉
《庭野開祖のことば》
〈回向〉…回は、回すということ。向は向けるということ。したがって、回向とは、回してふり向けるという意味です。すなわち、ほんらい自分が受けるべき功徳を、他へふり向けることです。
 たとえば、経典を読誦すれば、仏の教えが深く心に植えつけられ、心が清まりますから、もともと読経ということは、自分自身の成道のための行であります。ところが、これを先祖の霊前において行なえば、自分が受けるべき功徳を先祖へふり向けることになります。だから、亡き人の霊前で読経することを、回向というのです。
 しかし、回向は、けっして亡き人にたいしてばかりするものではありません。その本義からいえば、生きている人びとにたいして行なっても、さしつかえないどころか、もっと意義あることといえましょう。すなわち、われわれが人類全体の向上と至福を念じながら読経をすれば、自分が受けるべき功徳を、人類全体へふり向けることになります。そのゆえにこそ、朝夕の読経の最後に〈願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん〉と唱えるのです。(『新釈法華三部経』より)

【8月12日 是(こ)の処(ことわり)あることなけん】
 若(も)し善男子、是(かく)の如き功徳あって、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於て退(たい)すといわば、是(こ)の処(ことわり)あることなけん (分別功徳品第十七)
〈現代語訳:もし人びとがこのような功徳のあることを知りながら、仏の悟りを求める道において、仏の寿命の無量であることを信ずることをしなかったとしたら、そんなりくつに合わぬことはありますまい。そんなことはありえないのです〉
《庭野開祖のことば》
〈阿耨多羅三藐三菩提に於て退す〉
…このままでは、仏の悟りを求める道において退転するということになりますが、この場合の〈退転〉の意味は、仏の無量寿に疑いをもつことにほかなりません。
 仏の寿命の無量であることが信じられなかったら、仏さまがいつもともにいてくださることも、自分の仏性が不生不滅であることも信じられません。そういう不信は、現象にとらわれているために起こるものであって、凡夫のものの見かたです。そういう低い見かたのなかにさまよっていながら、仏の悟りを得ようなどということは、羽がないのに空へ飛びあがろうとするようなもので、まったくりくつに合わないことなのです。この〈処(ことわり)あることなけん〉という、世尊のつよい語調を、よく味わわなければなりません。(『新釈法華三部経』より)

【8月11日 一切善根を具(ぐ)して】
 仏の名(みな)十方に聞(きこ)えて 広く衆生を饒益(にょうやく)したもう 一切善根を具(ぐ)して 以(もっ)て無上の心を助(たす)く (分別功徳品第十七)
〈現代語訳:仏さまのみ名は十方にひびきわたって、ひろくおおくの衆生に功徳をおあたえくださいました。おかげさまで、一切の衆生が善根をそなえるようになり、その善根が、無上道にたっしたいという究極の願いをとげるのに、たいへん役立つのでございます〉
《庭野開祖のことば》
 この品の前半の眼目は、この〈一切善根を具して以て無上の心を助く〉の二句に要約されているといってもいいでしょう。
 仏寿の無量なことを聞くことによって、仏さまは、常にわれわれとともにいてくださることを知りました。それを知ったからには、どうしても、善い心をもち、善い行ないをせざるをえなくなります。なぜならば、五十年なり七十年なりの一生を終わったらすべてがおしまい、というのであれば、人によっては、「少々よくないことをしてでも、その期間だけを楽に、おもしろおかしく送ればいいのだ」という気持になることもありましょう。(中略)
 それならば、人間の向上の究極の目標はなんでしょうか?仏の境地です。その境地は、われわれ凡夫にとっては、遠い遠いかなたにあって、とうていゆきつけそうにはおもわれません。それでいいのです。ゆきつけそうにない境地であればこそ、それをめざしてはるかな旅をつづけることができるのです。どんなに遠くても、ゆくてに光り輝く世界があるのですから、一歩一歩に希望があるのです。一足一足に勇気が湧くのです。暗黒の底なしの穴をのぞくのにくらべて、なんというちがいでしょう。
 これが、仏寿の不滅を知ることの大功徳なのです。あなた自身の心で、よくよくおもいめぐらしてみられることを、切におすすめいたします。(『新釈法華三部経』より)

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【8月10日 我(われ)常に此(こ)の娑婆世界に在(あ)って説法教化す】
 是(こ)れより来(このかた)、我(われ)常に此(こ)の娑婆世界に在(あ)って説法教化す。亦(また)余処(よしょ)の百千万億那由他阿僧祇(ひゃくせんまんのくなゆた)の国に於ても衆生を導利(どうり)す (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:そういう無限の過去から、わたしはつねにこの娑婆世界にいて、衆生に法を説き、教えみちびいているのです。娑婆世界ばかりでなく、その他のあらゆる世界においても、おなじように衆生をみちびいて、利益をあたえているのです〉
《庭野開祖のことば》
 ここがまた、ひじょうにたいせつなところです。すなわち、「人間としてこの世にあらわれた自分は、成道以来四十数年しかたっていないけれども、自分の本体である本仏は、無限の過去からつねにこの娑婆世界にいるのである」とおっしゃるのです。そればかりではありません。久遠実成の本仏釈迦牟尼如来は、十方世界のありとあらゆるところにおいて衆生をみちびいてこられたとおっしゃるのです。(中略)
 仏教においては、この世に出現されて仏の教えを説かれ、そしてその教えの生きた手本をご自分の身に示された釈迦牟尼如来のおすがたに、根源の法(久遠本仏)の尊さを拝するのが、もっとも自然であり、また当然でもあるといわなければなりません。
 とくに、法華経の教えを信ずるものは、法華経のこの《如来寿量品》に、はっきりと「自分は無限の過去からこの宇宙のあらゆるところにおいて衆生を教えみちびいているのである」とおおせられているのですから、なんら疑うところなく、根源の本仏を釈迦牟尼如来のおすがたに見、拝しなければなりません。すなわち、われわれの信仰の対象たる本尊は、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊でなければならないのです。
 本尊の確立ということは、信仰者にとって、なによりもたいせつなことです。その本尊が、この《如来寿量品》においてきわめて明白に示されているのです。まことにおろそかならぬ、重大なことです。しっかりと読み、しっかりと胸に刻みこまねばなりません。(『新釈法華三部経』より)

【8月9日 其(そ)の心(こころ)恋慕(れんぼ)するに因(よ)って】
 我(われ)諸(もろもろ)の衆生を見れば 苦海に没在(もつざい)せり 故(ゆえ)に為(ため)に身を現ぜずして 其(そ)れをして渇仰(かつごう)を生ぜしむ 其(そ)の心(こころ)恋慕(れんぼ)するに因(よ)って 乃(すなわ)ち出(い)でて為に法を説く (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:仏の眼をもって衆生を見れば、おおくの衆生は苦の海に沈んで、苦しみもがいています。さればこそ、わざと身をあらわさず、衆生にみずから仏を求める心を起こさせるのです。衆生の心に仏をあこがれ慕う心が起これば、その心にひかされて身をあらわし、その人たちのために法を説いてあげるのです〉
《庭野開祖のことば》
〈苦海に没在せり〉…字義のとおり、仏の教えを知らない衆生は、みんな苦の海に沈んでいるという意味です。なかには、自分が苦の海に沈んでいることを意識しない人もあります。しかし、こういう人も、長い人生のあいだには、事にふれ、折りにふれ、いいしれない寂しさや不安のために、なにものかにすがりつきたくなることがあるはずです。自分をささえてくれる絶対の力が欲しくなることがあるはずです。こういう気持が、仏さまにたいする恋慕の心のいとぐちなのです。
〈其の心恋慕するに因って〉…この〈因って〉ということばを見のがしてはなりません。人びとの仏さまにたいする恋慕の心が原因となって、仏さまはそれにひかされて、その人のまえにあらわれてこられるのです。われわれの側からいえば、さきにものべたように、仏さまを求めさえすれば、ひとりでに仏さまが見えてくるわけです。(『新釈法華三部経』より)

【8月8日 度(ど)すべき所に随(したが)って】
 我(われ)常に衆生(しゅじょう)の 道(どう)を行じ道を行ぜざるを知って 度(ど)すべき所に随(したが)って 為(ため)に種種(しゅじゅ)の法を説く (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:わたしは、衆生のすべてをつねに見とおしていて、あるものはよく仏の道を行じており、あるものは行じていないということを知りつくしていますから、衆生の心がけや機根の程度に応じて、適切な方法をえらび、さまざまに法を説いてあげるのです〉
《庭野開祖のことば》
「久遠実成の本仏は常にこの宇宙に満ち満ちておられ、すべての存在はその分身であるから、どんな不幸に陥っている人でも、自分は仏の子である。久遠の本仏に生かされているのだ、ということを思い出しさえすれば、仏の生かす力はよどみなくその人の心身に流れ込み、必ず幸せを得ることができるのだ」という真実を、ご成道四十余年にして初めてお説きになったのです。ここが、法華経の最も有り難いところです。
 この真実は、普通の人間にとってはこの上もない救いです。「仏さまに生かされている」と強く、深く信じただけで、何とも言えぬ大安心が胸を満たし、生きる勇気が猛然とわき上がってくるからです。まことに〈情〉から入った〈信〉の極地です。(『佼成』より)

【8月7日 我も亦(また)為(こ)れ世の父】
 我も亦(また)為(こ)れ世の父 諸(もろもろ)の苦患(くげん)を救う者なり (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:わたしも父であります。世界全体の父であります。世の衆生の、もろもろの苦しみ悩みを救うものであります〉
《庭野開祖のことば》
 この〈我も亦(また)為(こ)れ世の父 諸(もろもろ)の苦患(くげん)を救う者なり〉という一語は、ほんとうにありがたいおことばです。仏さまの慈悲が溢れています。しかも、その慈悲がなんともいえない温かみをもって、われわれの皮膚につたわり、胸にしみこんでくるのをおぼえるではありませんか。(『新釈法華三部経』より)
 一切衆生は本仏のいとし子です。
 本仏はいつでも、私たち一切衆生が一刻も早く真実に目覚めて悟りを開き、安穏の境地に到達するようにと、大慈大悲のみ心でつねに念じ続けておられるのです。(『庭野日敬法話選集』より)

【8月6日 常住(じょうじゅう)にして滅せず】
 我(われ)成仏してより已来(このかた)甚だ大(おおい)に久遠(くおん)なり。寿命無量阿僧祇劫(むりょうあそうぎこう)、常住(じょうじゅう)にして滅せず (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:ほんとうのわたしは、ひじょうに遠いむかしから、いや、いつからということもいえない無限の過去から、仏となっているのであって、これから先の寿命も、また無限であります。そして、つねにこの世に住していて、滅するということはありません〉
《庭野開祖のことば》
 いよいよここで、仏さまの本体を明らかにされたわけです。重大な一節です。すなわち、現身の釈迦牟尼如来の本体は、不生不滅の久遠実成の本仏であり、無限の過去から、永遠の未来まで生きとおしの、不滅の実在であるという大宣言なのです。(『新釈法華三部経』より)
 久遠の本仏は、宇宙の真理としてまた根元の大生命として、常住不滅であり、一切衆生をはじめ宇宙に存在するすべてのものの中に充ち満ちで、すべてのものに生命を与えています。(『庭野日敬法話選集』より)

【8月5日 値遇(ちぐう)すべきこと難(かた)し】
 是(こ)の故に如来、方便を以(もっ)て説く、比丘(びく)当(まさ)に知るべし、諸仏の出世(しゅっせ)には値遇(ちぐう)すべきこと難(かた)し (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:如来は方便をもって、「諸仏が世に出られるのにめぐりあうのは、ひじょうにむずかしいのである」と説くのです〉
《庭野開祖のことば》
「諸仏の出世(しゅっせ)には値遇(ちぐう)すべきこと難(かた)し」という言葉が、『法華経』の「如来寿量品」にあります。さまざまな仏さまがこの世に出られる、ちょうどそのときにめぐり会うのは至難のことだといわれるのです。けれども、同じ「如来寿量品」で仏さまは「私はいつもこの世界で説法し続けているのですよ」ともおっしゃっておられるのです。
 仏さまに遇(あ)うことが難しいのは、仏さまが姿を隠されているからではなくて、私たちの心が仏さまの教えを受け取る心になっていないからなのです。(中略)
「仏さまにすべておまかせいたします」という心になりきってしまうと、それまで自分本位の考えで自分を縛っていた心が解き放たれて、そこに仏さまの光が差し込んでくるのです。(『開祖随感』より)

【8月4日 天人常(つね)に充満(じゅうまん)せり】
 衆生(しゅじょう)劫(こう)尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此(こ)の土は安穏にして 天人常に充満せり (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:衆生の目から見れば、この地球が現在のような状態で存在する時代が終わって、世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時代がきても、仏の国土は安穏であって、天上界のものや人間界のものがいつもたくさん集まって住み、楽しい生活をおくっているのです〉
《庭野開祖のことば》
 この〈劫〉というのは、この場合は時間を示す単位ではなく、時代をいうのです。むかしのインドでは、天地万物が現在のような形を成している時代が尽きると、それらがことごとく焼け壊れはててしまう時代がくると考えられていました。これを〈劫尽きて〉というのです。
 そういう時代がきても、仏の世界は焼けもしなければ、壊れもしない。それどころか、このように美しい、平和な国土であるというのです。それは、現象として目の前に見える世界はどう変わっても、仏の悟りの世界、つまり、不生不滅である仏性が顕現された世界は、つねに平和な寂光土であるということです。(『新釈法華三部経』より)
 仏性の開顕は人生の大眼目です。浄土は西方の彼方にあるのではなく、自己の本然の姿である仏性を開顕したときに、苦の娑婆と見えたこの世界が、じつは浄土であったと分かります。それが『法華経』に説かれる「我此土安穏(がしどあんのん)天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)」の世界です。(『開祖随感』より)

【8月3日 唯(ただ)願わくは之(これ)を説きたまえ】
 合掌して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊(せそん)唯(ただ)願わくは之を説きたまえ。我等(われら)当(まさ)に仏の語(みこと)を信受したてまつるべし。是(かく)の如く三たび白(もう)し已(おわ)って復(また)言(もう)さく、唯(ただ)願わくは之(これ)を説きたまえ。我等(われら)当に仏の語(みこと)を信受したてまつるべし (如来寿量品第十六)
〈現代語訳:一同合掌しながら、仏さまにもうしあげました。「世尊。お願いでございますから、お説きくださいませ。わたくしどもは、かならず仏さまのおことばを信受いたします」。このように三度くりかえしてもうしあげましたが、それでもまだ足りない気持で、もう一度それをくりかえしました。「ほんとうにお願いでございます。その教えをお説きくださいませ。わたくしどもは、かならず仏さまのおことばを信受いたします」〉
《庭野開祖のことば》
 このようにくりかえしてもうしあげるのは、ぜひ法を聞きたいという熱烈な願いと、聞いたうえはかならず実践せずにはおかぬという固い決心をあらわしているのです。〈信受〉ということばにも、その気持がこもっているのであって、〈信受〉というのは、ただ信ずるだけでなく、「それをしっかりと胸に刻みつけて忘れません」という意味をも含んでいるのです。(『新釈法華三部経』より)

【8月2日 為(こ)れ上首唱導(じょうしゅしょうどう)の師なり】
 是(こ)の菩薩衆(ぼさつしゅう)の中に四導師あり。一を上行(じょうぎょう)と名(なづ)け、二を無辺行(むへんぎょう)と名け、三を浄行(じょうぎょう)と名け、四を安立行(あんりゅうぎょう)と名く。是の四菩薩其(そ)の衆中に於て最も為(こ)れ上首唱導(じょうしゅしょうどう)の師なり (従地涌出品第十五)
〈現代語訳:その菩薩がたのなかに四人の導師がおられました。第一の菩薩を上行といい、第二の菩薩を無辺行といい、第三の菩薩を浄行といい、第四の菩薩を安立行といい、この四菩薩はもろもろの菩薩の最上位にあり、先頭に立ってみんなを導いていく指導者であります〉
《庭野開祖のことば》
〈上行〉…〈至上の法を行ずるもの〉という意味。
〈無辺行〉…〈無限の行をするもの〉という意味。
〈浄行〉…〈清浄な行をするもの〉という意味。
〈安立行〉…〈確実な行をするもの〉という意味。
 すべてに〈行〉ということばがついていることに注目しなければなりません。すべてが実践を旨とする菩薩なのです。理の教え・智慧の教えである法華経前半の説法が終わったとたんに、実践を旨とする菩薩が無数に出現したのです。(『新釈法華三部経』より)
 地涌の菩薩とは、人間としてあゆむべき正しい道に気づかずにいる大衆に対して、その人たちと生活をともにして、人びとに目覚めと救いをもたらそうという誓願をもって立ち上がった人のことです。人が救ってくれるのを待っているのではなく、自ら決心して立ち上がる人、その人たちにお釈迦さまは法華経による救いを託されたのです。(『開祖随感』より)

【8月1日 甚(はなは)だ為(こ)れ有り難し】
世尊、是(こ)の諸(もろもろ)の菩薩は甚(はなは)だ為(こ)れ有り難し (安楽行品第十四)
〈現代語訳:世尊。このおおくの菩薩は、まことに希(ま)れに見る人たちでございます〉
《庭野開祖のことば》
 この「ありがたい」というのは、もともと『法華経』から出た言葉で、「安楽行品」に「是(こ)の諸(もろもろ)の菩薩は甚(はなは)だ為(こ)れ有り難し」とある、あれが語源だと言われています。もともとは「有ることが難(かた)い」「めったに会うことができない」という意味だったのです。それが感謝を示す「ありがたい」に変わったのは、「めったにないことをして下さって感激です」という意味なんです。(中略)
 お釈迦さまも『法句経(ほっくぎょう)』一二八番でこうお説きになっておられます。
 ひとの生を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有り難し
 そのように、「目に見えない多くのものの恩を感ずる心」「天地すべてのものに感謝する心」こそが人間らしい心であって、そういう心を持って生活すること自体が幸せなんですよ。(『躍進』より)

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