【こころの彩時記11】一番の良き師、良き友は・・・
- 2018/3/1
- 自分を創る
雪の降る2月、私は夜行バスから岐阜県高山市に降り立ちました。かつて、近藤雅則教会長さんから、そのご講話の中で教えて頂いた“日本のヘレンケラー”と呼ばれる中村久子さんが生まれ、育った飛騨高山の土地、風土をただ知りたい、そんな思いからでした。
中村久子さんは、明治30年に岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)に産まれました。久子さんが2歳になった冬のこと。
「お父ちゃん、お母ちゃんあんよが痛いよ、痛いよ」
と泣き叫びました。両親が足の甲を見ると黒ずみ凍傷(霜焼け)になっていました。
この凍傷がもとで、久子さんは「突発性脱疸(だっそ)」(高熱のため肉が焼け、骨が腐っていく病気)となり、左手首、右手首、左足はひざとかかとの中間、右足はかかとからの切断を余儀なくされました。
久子さんは、七歳の時に父と死別、厳しい生活環境の中で、母親のあやさんの親心から厳しい教育が始まります。
10歳の頃には、お母さんが着物を与え、「ほどいてみなさい」と言います。久子さんが、「どうやってほどくのですか?」と聞くと、「自分で考えてほどくのです」と言ったあとお母さんは、「人間は人の役に立つために生まれてきたのです。できないことはありません」とお母さんは心を鬼にして久子さんを突き放たれたというエピソードが残っています。
そんなの母親のあやさんの厳しい躾によって、久子さんは食事、トイレ、風呂といった身の回りのことはもちろんのこと、裁縫、編み物、炊事、洗濯など、日常生活のことはほとんどができるようになりました。
やがて、二十歳の時に高山を離れ、「だるま娘」として名古屋の見せ物小屋に身を売られた久子さんは、裁縫や編み物、短冊や色紙に字を書いて売る芸や、針に糸を通し、その糸を口で結んで見せる、いわゆる「見せ物芸人」の道を歩んでいました。
そんな久子さんに、人生の一大転機が訪れました。
昭和13年、書家・福永鵞鳳師より浄土真宗の教化を本格的に受け、親鸞聖人のお言葉が書かれた「歎異抄」に出会うのです。
中村久子さんは、阿弥陀さまとの出会いを次の歌にして遺されています。
手はなくも足はなくともみ仏の慈悲にくるまる身は安きかな
昭和17年、46歳の時、興業界より完全に身を引き、その後、執筆活動、講演活動、各施設慰問活動を始め、高山身障者福祉会の初代会長を務め、また厚生大臣賞などを受賞し、全国の健常者・身障者に大きな生きる力と勇気を与え続けました。
昭和43年3月19日、高山市天満町の自宅で脳溢血が原因で逝去。享年72歳の人生でした。
生前、久子さんは自らの人生を振り返り、
今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は両手、両足のないこの体でした
と語られました。
そんな中村久子さんの生涯を思いながら、高山の古い町並みを歩いた後、今回の一番の願いであった飛騨国分寺を目指しました。なぜなら、飛騨国分寺境内に、久子さんが建立した「悲母観世音菩薩像」を参拝したかったからです。
久子さんが69歳の時に、自らを生み、育ててくれた母親あやさんへの感謝の心と、「多くの人々に生きる力を与えてほしい」との願いのもとに造られた観音さまです。
通りを歩いてゆき、道の角を曲がった時でした。朝日を浴びて天に向かって、凛々しく立つ、それは見事な飛騨国分寺三重塔が、眼の中に飛び込んできました。私は、「早く悲母観音さまをお参りをしたい」。その一心で早歩きした時、雪のあとの凍った路面に足をとられ、前のめりに転んでしまいました。とっさに両手をつき、大事には至りませんでしたが、両の掌と両膝がしばらく痛みました。
そして、「悲母観世音菩薩像」を拝ませて頂くことができました。左でに赤子を抱き、首をかしげ、優しく微笑むそのお顔を見つめた時、私は眼に熱いものが溢れました。
と同時に、次のことが心に浮かんできました。
(三重塔を拝したとたん、転んで手足を打った。痛かった。でも、手や足があるから痛みがわかる。転ぶこともできる。立ち上がれることもできる。中村久子さんはどんな思いで不自由な身体で生きてきたのだろう?いや、生かされてきたのだろう?…そのことを、あなたは身を持って気づけと、観音さまと中村久子さんの深い慈悲の心がきっと私を転ばせてくれた。そうに違いない)
悲母観音さまに抱かれた赤子もまた、観音さまのお顔をしっかりと見つめていました。
中村久子さんの言葉
「貧困・差別・別離」から、「労働・結婚・子育て・学び・感動」を生み出し、私を救ったのは両手両足のないことからでした。両手両足のないことに感謝しています。
「精神一到何事不成」この文字こそは、世に稀な不具の身でありながら私をして、たとえまがりなりにも、苦難の連続にいどみつつ世の荒波と闘って、今日あらしめた母の教えに心から感謝しております。
私を軽蔑し、私を酷使した方々でさえもいまになって思えば、私という人間をつくりあげるために力を貸してくださった方々だとそう感じているのです。