今月の会長法話は、「“ありがたい”といえる幸せ」がテーマ。
すべての出来事をありがたいといえたら確かに幸せにちがいありません。しかし、この世の中は自分の思い通りになりません。私たちの人生に起こる出来事は、ありがたいことばかりでないのが現実です。
私たちは、ありがたい出来事のみがやってくることを願っています。しかし、この世の中は、「ありがたいこと」より「ありがたくないこと」の方が圧倒的にたくさんやってくるはずです。「この世は苦である」とお釈迦さまが明確に悟っている通りです。
では、どうすればよいのでしょうか。ありがたい出来事を願うのではなく、「ありがたいといえる人になる」ことを願うのです。「佼成会は、病気治しの信仰ではなく、病人治しの信仰です」とよく言われます。それはまさに、何事もありがたいと受けとめられる人になることでもあると思います。
「法華経ですべての人が百パーセント救われる」というのは、出会うことすべてを幸せの因(もと)と見ることです。(中略)
「出会う縁によって、自分がいつも幸せになる道を歩んでいる」と信じることが、救われの第一歩です。(中略)
ですから大切なのは、出会うすべてのことを常に幸せの因と見る訓練をすることなのです。(『開祖さまに倣いて』庭野光祥著より)
東日本大震災で大事なご家族を亡くされた方がいました。その方が、「仏さまは、私たちを仏の境地に近づける(真の幸せ)にするために、さまざまな慈悲の説法(試練)を与えてくださると教えられます。しかし、こんな辛い思いをしなければならないのなら、私は仏さまの慈悲はいりません。仏に近づきたいとも思いません。どうか放っておいてください」と、おっしゃっていました。
よほど辛かったのでしょう。「すべての現象は、私たちを仏の境地に近づけるために出される仏さまの慈悲の説法である」と、法華経の如来寿量品に確かに説かれています。しかし、そのことばを素直に受けとめられない時もあるのではないでしょうか。いや、受けとめられないからこそ苦しんでいるのだと思います。
「すべての出来事が仏さまの慈悲の説法(幸せの因)であり、ありがたいと受けとめなければならない」と強いるのが信仰であるならば、信仰によって救われるどころか、より辛い思いをするだけではないでしょうか。実際、そのように苦しんでいる人も少なくないように感じます。
教えは正しいに違いありません。しかし、正しいであるがゆえに、同時に厳しいものであるかもしれません。正しさと厳しさを含んだ教えを受けとめていくためには、周囲の優しさや忍耐力が不可欠なのです。「サンガ(同信の仲間)が大切である」といわれるのは、そのためだと思います。
合 掌
2020年11月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則