今月の『佼成』会長法話のテーマは「心の声に耳を澄まそう」です。
先月に引き続き、法華三部経の結経とされる「仏説観普賢菩薩行法経」に因んだ内容です。
「どのようなときでも反省や懺悔を忘れなければ、さらさらと流れる水のような、自在にして清々しい生き方ができる」とあり、そのようになりたいと心から願わないではいられません。
「諸法の実相を深く思念すること」が究極の懺悔とありますが、どういうことなのでしょうか?これは、わかりにくい気がしますが、14頁の最後に「実相をかみしめて自己を省みる懺悔は、身心を浄化する悟りそのもの」とあり、究極の懺悔とは、自己の実相(本当のすがた)を深く見極めることなのだと感じました。
私たちはものごとの実相を見ているようで、実は見えていないのです。例えれば、皆それぞれが色メガネをかけてものごとを見ているようなものです。黒いメガネをかけている人は、全体が黒っぽく見えます。赤いメガネをかけている人は、赤っぽく見えます。青いメガネをかけている人は、青っぽく見えるのです。
ですから、誰も本当の色を見ていないのです。にもかかわらず、私たちは正しく見ていると錯覚しています。お互いが色メガネで見たものを正しいと主張し、争っているのが凡夫の世界と言えましょう。
私たちが仏法を学び、仏道修行することは、この色メガネの色をうすめ、実際の色が少しでも見えるように努力していることです。実際の色が見えるようになった分、身心が清まっています。そして、正しい判断ができます。すると、正しく対処できます。その分、人との争いや衝突が減ります。無駄な苦労をすることもなく、何事もスムーズに運ぶようになり、自在にして清々しい生き方ができるようになるのだと思います。
すべての人を「あなたは仏になる可能性をもたれた尊い方です」と合掌礼拝された常不軽菩薩の姿勢こそ、人のふるまいのお手本であり、懺悔という悟りを身で示す、最も身近な実践といえると書かれています。
私たちが日々実践している「認めて・ほめて・感謝する」の修行は、相手を喜ばせるための単なる処世術ではありません。これは常不軽菩薩のなされた合掌礼拝(仏性礼拝)そのものです。つまり、人としての行動のお手本であり、懺悔の実践でもあるのです。そのことを念頭におき、いっそう実践していきましょう。
最後に・・・、信仰は長く続けることが肝心です。深遠な仏さまの教えは、簡単に理解することは困難です。しかし、長く学び精進を続けることで、徐々に理解できるようになり、身についてくるのです。
しかし一方で、長く続けていくとマンネリ化してきます。信心に垢がたまり、カビ臭くなるのです。そうならないよう、いつまでも瑞々しい信心をもち、生き生きと精進を続けることが大切です。そのためには、常に人格向上(心を高めること)をめざし、謙虚に反省し、素直な懺悔ができるようでありたいと願っています。
合 掌
2021年12月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則