今月のご法話のテーマは「他人事」を「自分のこと」にです。
「老いること」「病むこと」「死すこと」、これらは私たちが経験する人生苦ですが、「自分のこと」と受けとめている人は少ないと思います。特に若くて元気なときは、実感がわかないのは当然でしょう。しかし、そこから醜い「おごり」が出てくることがあります。私自身の愚かな体験をお話しします。
まず、「若さのおごり」。路線バスから降りるときです。私の前で高齢の女性が運賃を支払っています。最近では電子マネーを利用する人が多いのですが、その女性はまだ現金主義です。カバンの中をかきまわし財布をさがす。ようやく財布をとり出し、中の小銭をさがす。あいにく小銭がなく両替を求める。すごく時間がかかり、「何ボヤボヤやってんだよー」と、心の中で叫んでいる私がいるのです。
これこそ「若さのおごり」だと思うのです。心の中で高齢者を見下しているのです。やがて私も彼女と同じように高齢になるのに、「他人事」と受けとめているのです。
次は「健康のおごり」。私は昨年9月ころから座骨神経痛を患い、11月あたりから耐えきれないくらいの激しい痛みになりました。元来丈夫な私は健康を自慢し、神経痛の苦しみなどまったく分かりませんでした。しかし、自分が苦を経験してみて、はじめて他人の苦しみが実感でき、共感できるのだと思いました。
もう一つ気づいたことがありました。自分が苦しんでいるとき、「だれか、この苦しみを分かってほしい」と切実に思いました。これは、教会でも同じことが言えると思いました。人は悩み苦しんでいるとき、「この苦しみを分かってほしい」と願うのだと思います。しかし、今までの私は、その苦しい思いには目もくれず、問題をどう解決するかということばかりを考えながら聞いていたことを強く反省いたしました。
そして、「元気で生きていることのおごり」。元気ハツラツと生きていることは素晴らしいことです。しかし、いつまでもその状態が続くわけではありません。どんなに健康に留意し、高価なサプリメントを飲んだとしても結果は同じです。多少の早い遅いはあるにせよ、しょせん時間の問題なのです。無駄な努力なのです。頭でそう分かっていても、いつまでも元気で若々しくいようとすること、そこにも「おごり」や「優越感」があるように思います。
どんなに若く元気でいても、必ず最後の日が来ることを心底自覚できてこそ、一日一日を大切にでき、感謝と喜びで送ることができるのでしょう。身近な方の死に直面する度に、限りある命のありようを「自分こと」として受けとめるよう自覚を促されているのかもしれません。
私は昨年、おかげさまで65歳を迎えました。体力・記憶力の低下を感じ、座骨神経痛も患い、次第に「老いること」を実感するようになりました。辛くはかない気分になりがちですが、一方で「経験を重ねると、私たちは人の気持ち、とくに人の悲しみや苦しみがよくわかるようになるといわれます。それは、人間が成長することですが、私はそれを仏に近づいていくことでもあると受けとめています。」(13頁末行)とあります。年をとることは素晴らしいことでもあると、明るい気持ちになりました。人間として成長できるよう、こころ豊かに、学ぶことを怠らず年をとっていきたいと思いました。
合 掌
2023年2月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則