「暑さ寒さも彼岸まで」今月は、秋季彼岸会を各家庭・各地区でお迎えさせて頂きましょう。季節の変わり目を感じつつ、私たちのいのちの「根」、ご先祖さま。いのちの根に供養を捧げることで、子孫という私たちへ回向(回し向けられる)されこと。大自然を含む大きなはからいの中で、私たち枝葉や実を育(はぐく)まれている感じを皆さんと友に味わいたいものですね(^▽^)。
また、今夏は猛暑日の記録が次々と塗り替えられ、また、実りの秋を前に今までにない雨量や停滞時間が長い台風だったり。さまざまな変化が加速度的に目の前に現れています。被害が大きくならないように、一人ひとりが防災・減災を目ざして気を引き締め、取り組んでまいりたいと思います。
9月号のご法話「心を耕し、仏を掘り起こす」には、バラモンと釈尊の対話の全文が取り上げられています。そして、仏教のすべてがここにあると。(仏教学者の増谷文雄氏が「仏教の全貌と本質とが、くまもなく、かつ具体的に」語られていると述べています)
信仰が私の播く種であり、鍛錬(たんれん)が雨である。 種を播く~いのち、生活、幸せ
智慧が私の犂(すき)であり、恥じることが轅(ながえ)である。 心を耕す~
心を縛る縄(なわ)であり、内省が犂先(すきさき)と突(つき)棒(ぼう)である。 ~行為、行動、作業
身と言葉を慎(つつし)み、食を節して過食しない。
真実を守ることは私の草刈りである。
柔和(にゅうわ)は牛の軛(くびき)を離すことである。
精進は荷を運ぶ牛で、安穏(あんのん)の境地に運んでくれる。
退くことなく進み、そこに至って憂(うれ)えることがない。
耕作(こうさく)はこのようになされ、不死(ふし)の実りをもたらす、 実り~あらゆる苦悩から解放
この耕作によって、あらゆる苦悩から解(と)き放たれる。 ~精神的な自由
(『心田を耕す』/庭野日鑛・佼成出版社)
「私も少年のころ、畑を耕す手伝いをしました。耕された土と、そうではい土とは相違があります。耕さない土は固くて何も受けつけようとしませんが、よく耕した土はやわらかで、水や肥料をいっぱい吸収するのです。同様によく耕された心は柔軟で、執着がなく、どんなことでも素直に吸収していけるのです」――(1998年『躍進』)
「素」という字は、「白い」「白い生地」という意味があると。お書初めの「素心」について、振り返りますと、自然のまま、人間そのものの純真な心で、さまざまなものを見たり、聞いたり、学んでいくこと。人間本来が持ち合わせている(純真な)心を出会い(布教)を大切に育ててまいりたいと思います。
また、会長先生の仰る「どんなことで吸収していける柔らかな心」。土の中に手を入れた感じを想像いたしますと、掌がほんのりと心まで温かくなります。そして、
「釈尊は、田畑(心)の土をとらえて掘り起こすその犂を智慧にたとえておられますが、牛馬を引く力が犂に伝わって十分に犂(智慧)が働くには、牛と犂をつなぐ轅という棒による制御が欠かせません。詩偈にしたがうと「恥じることが轅」ですから、恥じることによって心に内省という犂先が届き、内省を忘れたちきには突棒で犂先にこびりついた土を払うなどして、智慧(犂)が十全に働くようにすると、よく心(田畑)が耕されるのです。」
私の現実生活をご覧になっているような具体意的なご指導を賜りました。
自分の思いや考え方に凝り固まった私の心の田畑に犂(智慧)を入れ込むのは、時には痛みや驚き、ヒリヒリ(非理:私の理屈に合わない)ドキドキ(怒気:湧き出る感情)します。思いがけない、石(意思)や棒切れ(忘記れ:忘れてしまいたい記憶)も掘り起こされかもしれません。私の人生で出会いや生活により生み出されたモノ言(ごと)を余すことなく安らぎにまっ直ぐに結ばれるのだから。
悠久の昔、釈尊と出会い生きる希望や前を向く力を得たバラモンのように、会長先生をご法話をいただき、九月(夜長月)、いのちの根に潤いを私の心に光を灯し深めてまいりたいと思います。
共に、まいりましょう。
合 掌
令和六年九月一日
立正佼成会仙台教会
教会長 岩間由記子