今月号の「佼成」の会長法話のテーマは、「慈悲の心で-忍辱②」です。前号に引き続き忍辱がテーマです。忍辱とは、「他に対してつねに寛容であり、どんな困難も耐え忍ぶと同時に、どんな得意な状態にあってもおごりたかぶらない平静な心を持つこと」と教えられます。これは、菩薩(悩み苦しむ人を救い、仏の境地をめざして向上しようと努力している人)の修行目標である六波羅蜜の一つです。今月のご法話から次の3つのことをポイントとして受けとめました。
まず一つ目は、「人のふり見て我がふり直せ」(10頁3行)という言葉です。出会うご縁は、すべて自分にとって鏡のようなもので、自分自身を映し出しているという受けとめ方です。相手の愚かな行動や嫌な姿を見て、それを自分と受けとめることは難しいことです。とても自分と同じとは思えません。
しかし、これは私自身がつい最近経験した本当の話です。私の知人の一人で、約束をまったく守らない人(Aさん)がいました。いつも私は、約束を守らないダメな人、信頼できない人と決めつけ、Aさんを責めていました。しかし、先日、私自身もある人と交わした約束をすっかり忘れてしまい、守ることができず、その方から厳しく注意されたのです。その時、私も約束を守れないことがあること、Aさんと同じであると痛感させられました。そしてAさんを責めていた自分の愚かさを心から恥ずかしく感じた次第でした。人の姿は間違いなく自分を教えてくれていると心底感じたのです。
二つ目は、良寛さんの態度です。「一人の僧が、泥だらけの酩酊状態で禅師を訪ねて来るや、自分の帯でいきなり良寛さんを叩きはじめたそうです。しかし、良寛さんはただ打たれるにまかせ、難が去った夕刻には、雨がしきりに降るのを見て、ひとこと「あの僧は、雨具をもっていただろうか」とつぶやいた・・・。」(11頁末4行)
この良寛さんの境地、すごいと感じます。これほどに”とらわれの心”がなく行動できる。この境地に少しでも近づきたいと願わずにいられません。
「それに加えてこの話からは、慈愛もまた忍辱を実践するうえで大きな力となり、支えとなる」(12頁6行)
と書かれてあります。
この慈愛はどこから生まれてくるのでしょうか?それは、相手も自分も「共に未熟な人間(凡夫)」という自他一体感ではないかと感じました。相手と自分を区別し、どちらが正しいとか、まちがっているとか、優れているとか、劣っているとか、私たちは常に争っています。
しかし一方で、そうした愚かさを持ちながらも、「共に仏の子」、「共に仏性あり」という自他一体感も重要なのだと思います。こうした自他一体感から生まれてくる慈愛を尊く感じます。
三つ目は、「柔和忍辱の心」を身につけるための具体的な次の行動です。(14頁2行)
①過去にとらわれない。
②遊び一つも無心でとりくむ。
③人の助言を素直に聞く。
④「すべては自分」と受けとめて自己をふりかえる。
こうした実践を地道に繰り返し、忍辱の心を身につけていきましょう。それが人間性を向上させ、真の平安と幸福をもたらしてくれるのです。
合 掌
2022年6月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則