“思いやりの実践が仏に近づくこと” 教会長 近藤雅則(令和元年10月)
- 2019/10/1
- 心を創る
今月の会長法話は、「仏」を供養するがテーマ。
法華経の《授記品(じゅきほん)》では、摩訶迦葉(まかかしょう)・目犍連(もっけんれん)・須菩提(しゅぼだい)・迦旃延(かせんねん)という四人の高弟が授記されます。〈授記〉とは、「あなたはたしかに仏の境地にたっすることができる」という保証を、仏さまから授けられることです。
仏の境地にたっするためには、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら、三百万億とか八千億というように無数の仏さまを供養申し上げて・・・・」と説かれています。これを法華経に描かれた物語として理解するのではなく、現実の世界において、「出会う人はみな、すべて仏」と信じ、受けとめることだと述べられています。
庭野開祖も著書「菩提の萌を発さしむ」(167頁)に次のように述べています。
すべての人は、「久遠実成の本仏」に生かされている身です。ですからどのような人にも「久遠の本仏のいのち」が流れているのです。どのような人の心にも「久遠の本仏の慈悲心」がそなわっているのです。
つまり、どんな人に会っても、その人に流れている「仏のいのち」、その人の心にそなわる「仏の慈悲」を見ることができれば、それが「仏にあいたてまつる」ことにほかならないといえるでしょう。
しかし現実世界では、苦手な相手、嫌いな相手が存在し、顔を見るのも、口をきくこともイヤだと感じることはないでしょうか。そんな相手は自分とは異なるように感じますが、実は自分と同じもの、似たものをもっている。似た者同士だからこそ強い反発を感じるともいえます。
そんな場合、どうしたらよいか?
庭野会長は、「人の悩み苦しみが少なくなるように、楽しみが多くなるように」と願って、人を思いやること。それが、目の前にいる「仏」に対する供養であり、私たちは思いやりがあふれる人間になるにつれて「仏」に近づくと述べています。つまり、相手に対する思いやりの実践(慈悲行)によって仏の境地に近づくことで、苦手な相手、嫌いな相手も自然と消滅してしまうのです。
最後に、法華経では多く弟子たちが、お釈迦さまに授記されることを必死で請い願っていますが、その真意をよく理解することです。たんに自分の悟りや安心のために授記を願っているのではなく、〈一切の人びとを幸福にする自由自在の力を得たい〉という点にあることを見落としてはなりません。
2019年10月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則