💎 庭野日敬開祖「一日一言」~毎日のことば~(令和3年7月)

開祖さま2021年7月

 立正佼成会を創立した庭野日敬開祖の珠玉のおことばを「一日一言」と題して、毎日更新し、1つずつご紹介していきます。今月7月も引き続き《『法華経』の名句とその開祖さまのお言葉》をテーマにお届けします。
〈*経典の訓読ならびに現代語訳は、『新釈法華三部経』(庭野日敬著)によります(一部を除く)〉

【7月24日 常(つね)に師(し)と倶(とも)に生ず】
 彼(か)の仏の滅度の後(のち) 是(こ)の諸(もろもろ)の聞法(もんぽう)の者 在在(ざいざい)諸仏の土(ど)に 常(つね)に師(し)と倶(とも)に生ず (化城諭品第七)
〈現代語訳:仏の滅度ののちも、その教えの後継者から法を聞くものは、ここかしこの諸仏の国土に、かならず師とともに生まれかわるのです〉
《庭野開祖のことば》
〈常に師と倶(とも)に生ず〉…たとえば、今世において釈迦牟尼如来に法を聞いたものは、来世においても、国土は変わり、仏のお名まえはかわっても、やはり釈迦牟尼如来のみもとに生まれて、ふたたび法を聞くのだというのです。(『新釈法華三部経』より)

【7月23日 宝所(ほうしょ)は近きに在(あ)り】
 汝等(なんだち)去来(いざや)、宝所(ほうしょ)は近きに在(あ)り。向(さき)の大城(だいじょう)は我が化作(けさ)する所なり、止息(しそく)せんが為(ため)のみと言わんが如し (化城諭品第七)
〈現代語訳:「さあ、行きましょう。宝のある場所はもうすぐそこです。いままでここにあった城は、じつはわたしが仮りにつくったものだったのです。ここでひと休みして、気をとり直させるためにつくったものにすぎません」といいました」〉
《庭野開祖のことば》
 『法華経』の「化城諭品第七」には、宝の山に向かう隊商のリーダーが、疲れきったメンバーの行く手に幻の城を浮かび上がらせて、みんなの気力を奮い立たせる物語が出てきます。これは、みんなに希望を抱かせる手段だといえましょう。(中略)
 行く手に苦しいことが待っていることもあります。将来のために、あえて不利なことを甘受しなくてはならないこともあります。ときには、回り道をしなければならないこともあります。しかし、希望を持って自分の意志で歩き始めると、勇気を持ってそれに耐え、それを受け入れ、乗り越えていくことができるのです。(『開祖随感』より)

【7月22日 名(なづ)けて大樹(だいじゅ)と為(な)す 】
 不退(ふたい)の輪(りん)を転じ 無量億百千の 衆生(しゅじょう)を度(ど)する 是(かく)の如き菩薩を 名(なづ)けて大樹(だいじゅ)と為(な)す (薬草諭品第五)
〈現代語訳:つねに教えを説いて、やすむことも退くこともなく、そうしてひろく無数の人びとを迷いの世界から悟りの世界へみちびいて救ってあげる、そのような菩薩を、大樹と名づけることができます〉
《庭野開祖のことば》
 この〈不退の輪を転じ無量億百千の衆生を度する〉という菩薩行こそ、大樹であるゆえんであります。おなじ慈悲の行ないでも、人びとの現実の苦しみを現実的に救ってあげることと、仏法の教化によって心の底から苦しみをとりのぞいてあげることとは、格段の相違があるわけです。
 それは、たとえば、肺結核で熱や咳や痰に苦しんでいる人に、薬をあげて一時的に熱を下げ、咳や痰をしずめてあげることと、結核の病巣を根こそぎにして、健康体にかえしてあげることとのちがいのようなものです。一時的に熱や咳や痰をしずめるような慈悲の行ないもぜひ必要ですけれども、そのもとを根絶やしにして健康体にしてあげなければ、ほんとうの救いとはいえません。
 ですから、人を救う大道は、真理によって心の改造をしてあげることにほかならないのです。そして、このような行ないのできる人こそ、もっとも価値ある存在であり、〈大樹〉なのであります。われわれも、みんな〈大樹〉になりうる人間です。いや、すでにその道をあるきはじめているのです。こういう自信と誇りをもって、ますます精進していこうではありませんか。(『新釈法華三部経』より)

【7月21日 上中下等(ひと)しく其(そ)の大小に称(かの)うて】
 其(そ)の雲より出(い)ずる所の 一味(み)の水に 草(そう)・木(もく)・叢林(そうりん) 分に随って潤(うるおい)を受く 一切の諸樹(しょじゅ)  上中下等(ひと)しく其(そ)の大小に称(かの)うて 各(おのおの)生長することを得(え) (薬草諭品第五)
〈現代語訳:その雲から降ってくる同質の水によって、草・木・やぶ・林が、それぞれの分に応じてうるおいを受けるのです。一切の植物がひとしく、そのもちまえの大きさに応じてそれぞれせいいっぱい生長することができ〉
《庭野開祖のことば》
 どんな人でも、世の中が必要とすればこそ、それなりの姿で存在しているのです。肉体の大小や、外見や、資質や、才能などは千差万別でも、宇宙的視野で見れば、まったく平等な「価値ある存在」であり、本質的にはまったく平等に生かされているのです。(中略)
 ただ一つ、つねに人間のいのちと共にあって離れないものがあります。それは心です。仏教的にいえば仏性です。これが正真正銘、人間の本質です。ですから、あなたがどんなに貧しくても、どんな境遇にあろうとも、心さえ美しければ人間として最高の存在なのです。
 したがって、信仰によって心を清め、菩薩行によって仏性を磨き出そうとする精進こそが、この世に生まれた価値を発揮する最上の道なのであります。(『佼成新聞』より)

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【7月20日 平等に法を説く】
 恒(つね)に一切の為(ため)に 平等に法を説く (薬草諭品第五)
〈現代語訳:つねに一切の人びとのために、平等に教えを説くのです〉
《庭野開祖のことば》
 人によって法の功徳に相違があるようにみえるのは、その人が仏さまの慈悲の教えをどれだけしっかり自分に受け止めているか、どれだけ実行しているかの違いなのです。つまり、仏さまがくださる良薬を、自ら「取って服す」かどうかの違いだけなのです。(『開祖随感』より)

【7月19日 飲食(おんじき)充足(じゅうそく)し】
 方便して附近(ふごん)し 語って勤作(ごんさ)せしむ 既(すで)に汝(なんじ)が價(あたい)を益(ま)し 並(ならび)に足に油を塗(ぬ)り 飲食(おんじき)充足(じゅうそく)し 薦席(せんじゃく)厚暖(こうなん)ならしめん (信解品第四)
〈現代語訳:いろいろと工夫して警戒心を解いてあげてから、そばに寄り、直接話しかけて、もっともっとよくはたらくようにすすめるのでした。長者は、「おまえの賃金を増やしてあげよう。足に塗る油もあげるし、食べもの飲みものも、十分にあげよう。夜寝るときのコモやムシロも、もっとたくさんあげて、厚く暖かくしてあげよう」〉
《庭野開祖のことば》
 凡夫には心の自由自在さがありませんが、仏さまはすべてにおいて自由自在ですから、まず仏さまのほうから凡夫の所まで降りて来てくださるのです。長者がわざと汚いなりをして窮子(ぐうじ)に近づいて行ったというのはそのことなのです。久遠実成の本仏が釈迦牟尼世尊という肉体を持つ人間としてこの濁った世の中に出現されたのも、観世音菩薩が三十三種の人間の身をもって普門示現されるのも、やはりそうなのです。(中略)
 伝教大師は「道心の中に衣食(えじき)あり」と言っておられます。真剣に仏道を求める人に必要な衣食住は自然と備わってくるというのです。
 この『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』で、長者が「生活に必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」と言ったのも、そうした意味なのであります。(『佼成新聞』より)

【7月18日 黙(もく)して之(これ)を識(し)る】
 長者是(こ)の時 師子の座に在(あ)って 遥(はる)かに其(そ)の子を見て 黙(もく)して之(これ)を識(し)る (信解品第四)

〈現代語訳:長者はこのとき、自分の座からはるかに窮子のすがたを見て、無言のうちに、それが自分の子であることを知りました〉

《庭野開祖のことば》
 長者が一目見て、無言のうちに子であることを知った、その胸のうちがしみじみとわかります。むろん、それは、われわれ衆生にたいする仏さまのお心です。われわれはすこしも気づかないでいるのですが、仏さまのほうでは、つねにわれわれを黙して識っておられるのです。(『新釈法華三部経』より)
 この一句に本仏さまの慈悲の広大無辺さがしみじみと表現されているのです。久遠の本仏さまは、この宇宙のあらゆる所に充(み)ち満(み)ち、あらゆる生あるものを見守っておられます。すべての生あるものがご自分の実子であることをちゃんと知っておられるのです。それが「黙して之を識(し)る」です。(『佼成新聞』より)

【7月17日 内(ない)の滅(めつ)】
 我等(われら)内(ない)の滅(めつ)を 自ら足(た)ることを為(え)たりと謂(おも)うて 唯(ただ)此(こ)の事を了(さと)って 更(さら)に余事(よじ)なし (信解品第四)
〈現代語訳:わたくしどもは、心のなかの煩悩をすっかり滅することができたことを自覚しましたら、もうそれ以上のことを望もうとはいたしませんでした〉
《庭野開祖のことば》
「内の滅を自ら足ることを為(え)たり」とは、自分の苦だけを滅すれば、もう十分だと思い込むことです。「足るを知る」という言葉に似ていますが、まったく違う意味で、自分の苦がなくなるだけで自己満足しているのは大きな間違いである、と仏さまは戒(いまし)めておられるのです。
 自分さえ救われれば、人の苦などにまったく無関心というのでは、自分の本当の救われも約束されないのです。(『開祖随感』より)

【7月16日 此の火宅(かたく)より宜(よろ)しく速(すみや)かに】
 此(かく)の如き種種(しゅじゅ)の羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)、今門外にあり、以て遊戯(ゆけ)すべし。汝等此の火宅(かたく)より宜しく速かに出(い)で来(きた)るべし。汝(なんじ)が所欲(しょよく)に随って皆当(まさ)に汝に与(あた)うべし (譬諭品第三)
〈現代語訳:羊のひく車と、鹿のひく車と、牛のひく車だ。門のそとにあるから、それで遊びなさい。さあ、みんなこの家から早くでてゆきなさい。どれでも、好きなのをあげるから〉
《庭野開祖のことば》
 物があふれ、はなやかに繁栄しているようにみえるいまの社会も、豊かさや便利さを飽くことなく追い続けると、どんどん法からはずれ、破滅の道をたどりかねません。
 法華経には、燃えさかる家の中で、その火に気づかずに遊びほうけている子どもたちの話が出てきます。その子どもたちに仏さまは、「外にすばらしい車があるぞ」と呼びかけて大火から救いだされます。幸せを求めているつもりで、自分がどこへ向かっているか気づかずにいる現代人も、“火宅の子”と言えましょう。その人たちへの呼びかけは、物の豊かさや便利さを上回る真の豊かさ、本当の喜びを知ってもらうことです。(『開祖随感』より)

【7月15日 仏口(ぶっく)より生じ】
 今日(こんにち)乃(すなわ)ち知んぬ。真に是(こ)れ仏子なり。仏口(ぶっく)より生じ法化(ほうけ)より生じて、仏法の分を得たり (譬諭品第三)
〈現代語訳:今日はじめてわかりました。自分はほんとうに仏さまの子である、仏さまのお口から生まれ、仏さまの教化によって生まれかわり、仏法という無限の財産を分けていただいているのだ……ということが、ハッキリわかりました〉
《庭野開祖のことば》
 仏さまの口から説かれた法を聞くことによって自分の人生観、世界観が変わってしまう。もっと平たく言えば、これまでの自分のものの見方、考え方がガラリと転換して、まったく生まれ変わったようになってしまうことを、「仏さまの口から新たに誕生した」と表現しているのです。その生まれ変わりによって、その人その人の器にふさわしい法の功德が頂戴できるわけです。(『瀉瓶無遺』より)

【7月14日 唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)て】
 諸仏世尊は、唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)ての故に世に出現したもう (方便品第二)
〈現代語訳:もろもろの仏というものは、共通の、そしてただ一つの大事な目的のために、この世にでられるからです〉
《庭野開祖のことば》
 方便品に「諸仏世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)ての故に世に出現したもう」とありますが、その一大事とは、「すべての人に、仏の智慧に眼を開かせ、仏の智慧の実際を示し、仏の智慧の体験によって悟らせ、仏の智慧を完成する道に引き入れたい、ということだ」と説いておられます。
 仏の智慧とは、一口に言えば、宇宙や人生の根本法則を明らかに知ることだと言っていいでしょう。そして、人間の生きる究極の目的はそうした智慧に到達することにあるのだ、とお釈迦さまは説いておられるのです。(『躍進』より)

【7月13日 皆(みな)金色(こんじき)の如し】
 眉間(みけん)の光明(こうみょう) 東方  万八千(まんはっせん)の土(ど)を照したもうに  皆(みな)金色(こんじき)の如し  (序品第一)
〈現代語訳:眉間から放たれた光明が東方の万八千の国々をてらしますと、それらの国土がみな金色に輝いてみえます〉
《庭野開祖のことば》
 〈金色の如し〉…汚れにみちた地上も、仏の智慧の光によってみれば、みな一様に金色に輝く寂光土なのです。世界が汚れてみえるのは、われわれ人間の心の汚れによるのです。ちょうど茶色のレンズのサングラスをかければ、景色全体が茶色がかってみえるのとおなじです。本質においては金色に光り輝くような美しい世界なのに、心のレンズにいっぱい汚れがついているために、それを通してみる世界が汚れてみえるだけのことです。ですから、心の汚れをすっかり拭いさってしまえば、この世はこのままで寂光土にかわるのであって、法華経の教えの神髄はこのところにあるといってもいいでしょう。(『新釈法華三部経』より)

【7月12日 値(あ)いたてまつり難(がた)し】
 諸仏には甚(はなは)だ値(あ)いたてまつり難(がた)し 億劫(おっこう)に時(とき)に一(ひとた)び遇(あ)いたてまつる (序品第一)
〈現代語訳:仏というものにはなかなか会い難いのです。何十万年に一度しか会うことのできないものです。それをわすれてはなりません〉
《庭野開祖のことば》
〈諸仏には甚だ値(あ)いたてまつり難し億劫に時に一び遇いたてまつる〉…もとの意味は――仏さまの世に出られた時代にちょうど生まれ合わせ、そして仏の教えを直接うかがうということは、よほどの幸運に恵まれないかぎりできることではない――というのですが、われわれとしては、この末法の世において仏の教えを伝えきくということも、じつに何万人かにひとりというほどの幸運だと受け取らねばなりません。このなみなみならぬ仏縁をけっしておろそかにしてはならないのです。さればこそ、われわれ仏教徒は、つねに、つぎのような覚悟をことばにだしてくりかえすわけです。
「無上甚深微妙(みみょう)の法は 百千万劫(ごう)にも遭遇(あい)たてまつること難(がた)し 我今見聞(けんもん)し受持することを得たり 願わくは如来の第一義を解せん」(『新釈法華三部経』より)

【7月11日 仏法を照明(しょうみょう)し】
 正法(しょうぼう)を講説(こうぜつ)するに 種種(しゅじゅ)の因縁をもってし 無量の諭(たとえ)を以(もっ)て 仏法を照明(しょうみょう)し 衆生を開悟せしめたもうを覩(み)る (序品第一)
〈現代語訳:その仏さまたちは正しい教えを説ききかせるのに、あるいはさまざまな過去の実例をあげ、あるいは多くの譬えを引いて、最高の教えをだれにもわかるようにハッキリさせ、そうして多くの人びとの悟りをひらいておやりになるのです〉
《庭野開祖のことば》
〈仏法を照明
(しょうみょう)し〉…味わいふかい一句です。もともと仏法は明らかな真理なのですが、その真理があまりにも深遠であるために、おおくの人びとはその神髄をハッキリとみることができません。そこで、そういう人たちのためには、譬えなどをひいてやさしく解説し、すこしでもその神髄にちかづけてあげることが必要なのです。
 ダイヤモンドは薄暗がりのなかにあってもキラリとした輝きをみせます。鑑定力のあるひとは、それこそダイヤモンド独特のよさだということがわかります。しかし、ダイヤモンドを知らない人にはそれがわかりません。そんな人に対しては、強い光をあててみせて、キラキラとした輝きをみせてあげる必要があります。
 仏法を説くにも、やはり同様の心がけが必要なのです。初めから真理の奥深いところへ連れていっても、そのりっぱさを理解できない人がたくさんあります。やはり、人におうじ、場合におうじて、ごく入口のところから、それも耳にはいりやすく、のみこみやすい説きかたで案内してあげてこそ、ほんとうの意味で仏法の真価を発揮することになるのです。
 それが、〈仏法を照明(しょうみょう)し〉の意味なのであります。(『新釈法華三部経』より)

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【7月10日 慈を以(も)て身を修め】
 慈を以(も)て身を修め (序品第一)
〈現代語訳:ひとの幸せを願う心を人格完成の道の基本とし〉
《庭野開祖のことば》
 〈慈を以て身を修め〉…いいことばです。身を修めるというのは、自分の人格を完成させるために修養することですが、古来あらゆる聖賢がその方法をいろいろと教えられています。ところが、この菩薩たちは〈慈〉というものを、その基本的な道としているのだというのです。
 自分がえらくなるとか、自分がりっぱになるということは考えないのです。ただ、ひとのためをおもう、ひとを幸せにする、ひとを正しい道へ導くということにすべてを傾けるのです。そうすれば、自分はなにもりっぱになりたいと思わなくても、ひとりでに、しらずしらずのうちに、人間としての境地が上がってゆく…これが純粋な菩薩の修行です。(『新釈法華三部経』より)

【7月9日 諸仏如来、常に是(こ)の人に向って】
 諸仏如来、常に是(こ)の人に向って、而(しか)も法を演説したまわん(無量義経十功徳品第三)
〈現代語訳:もろもろの仏は、いつもその人のほうを向いていてくださり、しかも、その人に向かって教えを説いてくださるようになるでしょう〉
《庭野開祖のことば》
 まず、もろもろの仏が、いつもその人のほうを向いてくださるようになるというのですが、これは文章の表現の一つのあやであって、じつは、仏はいつもわれわれのほうを向いておられるのです。それなのに、われわれのほうで、仏の存在を知らず、あるいはその存在を完全に悟っていないために、自分からおしりを向けたり、そっぽを向いたりしているのです。
 ところが、無量義の教えを聞いて仏の慈悲を知り、とにもかくにもひとを導くようになると、自分の心が正しく仏のほうへ向くようになるのです。そうすると、仏の光をまともに受けるようになります。仏の教えも、じかに心に沁み入るようになります。すなわち〈而も(この人に向って)法を演説したまわん〉で、仏が自分と一対一の差し向かいで法を説いてくださる、そういう実感をまざまざと覚えるようになるのです。じつに有難い境地です。(『新釈法華三部経』より)

【7月8日 布施(ふせ)の心を起(おこ)さしめ】
 愛著(あいじゃく)ある者には能捨(のうしゃ)の心を起(おこ)さしめ、諸(もろもろ)の慳貪(けんどん)の者には布施(ふせ)の心を起さしめ (無量義経十功徳品第三)
〈現代語訳:自分の身のまわりにあるもの、すなわち、財産とか、地位とか、名誉とか、家族とか、そういったものに執着するあまり、悪いことをしたり、あるいは自分の心を苦しめている人は、この教えを聞くと、捨てるべきときにはいつでも捨てていいぞという、とらわれぬ気持(能捨の心)を持つようになりますので、いつものびのびとした自由自在な気持で活動できるようになります。また、もの惜しみをする心や、ひとのものをむやみと欲しがる心(慳貪)のはげしい人も、この教えを聞けば、ひとりでに布施の心が湧いてきて、人によくしてあげるようになります〉
《庭野開祖のことば》
 満足な食事もとれない飢餓状態にある人たちが、こんなにも多くいるその同じ地球に住み、毎日十分すぎるほとの食事に恵まれながら、私たちは欲望をさらに際限もなくエスカレートさせて、これで十分だという満足感、充足感を得ておりません。(中略)人はあればあるほど欲する心が強くなるものですが、逆に自分の持てる物を人さまに施す心に切り換えると、少ない物にも心から感謝できるようになるのです。際限のない欲望を断ち切るのには、この心の転換しかありません。(『開祖随感』より)

【7月7日 六波羅蜜自然(じねん)に在前(ざいぜん)し】
 大悲(だいひ)の意(こころ)を興(おこ)して、一切の苦悩の衆生(しゅじょう)を度(ど)せんと欲せば、未(いま)だ六波羅蜜(ろくはらみつ)を修行することを得(え)ずと雖(いえど)も、六波羅蜜自然(じねん)に在前(ざいぜん)し (無量義経十功徳品第三)
〈現代語訳:ひとの不幸を除こうという心を起こし、苦しみ悩んでいる一切の人びとを教化しようと、心から願うようになれば、まだ六波羅蜜のすべてを完全に修行していなくても、自然とそれが完成した状態になり〉
《庭野開祖のことば》
 在家の人がやっている信仰で、六波羅蜜を完全に会得してすべて実行するというのは至難の業(わざ)のように思えます。確かに、ちょっと説教を聞いたぐらいでは、とても六波羅蜜は分かりません。しかし、「なにもかもすべて分からなくてもいいのです」と、お釈迦さまはおっしゃってくださっています。
 教えられたとおりに「南無妙法蓮華経」と唱えてご先祖の供養を始めたら、ちゃんと功徳が頂戴できた。自分の心をちょっと変えたら、目の前のことが変わった。一念三千で、みんないいほうにいいほうに回っていくようになった…。そういう体験を、そのまま人さまに聞いてもらえば、それが六波羅蜜になっているのですね。「未(いま)だ六波羅蜜を修行することを得(え)ずと雖も、六波羅蜜自然(じねん)に在前(ざいぜん)し」と『無量義経』に説かれているのが、それです。(『開祖随感』より)

【7月6日 未(いま)だ自ら度(ど)せずと雖(いえど)も】
 未(いま)だ自ら度(ど)せずと雖(いえど)も而(しか)も能(よ)く他(た)を度せん (無量義経十功徳品第三)
〈現代語訳:まだ自分は悟りきっていない身でありながら、ひとを悟らせてあげることもできましょう〉《庭野開祖のことば》
 まだ自分のことも御しきれない未熟な人であっても、その教えどおりに説いてあげれば、法の尊さによって必ず人さまをお救いすることができる、と仏さまが保証されているのです。自信を持って説かせてもらわなくてはなりません。(『開祖随感』より)

【7月5日 自ら出(い)ずること能(あた)わず】
 諸(もろもろ)の苦毒(くどく)を受けて、無量億劫(むりょうおっこう)自ら出(い)ずること能(あた)わず (無量義経説法品第二)
〈現代語訳:いろいろの苦しみを受けるばかりで、いつまでたってもその境界から抜け出ることができないのです〉
《庭野開祖のことば》
 苦に閉じこめられている人をよく見ると、そこから抜けだす道があるのに、それに背を向けて、自分でその道をふさいでいることが多いのです。『無量義経』の「説法品」に「自ら出(い)ずること能(あた)わず」という言葉がありますが、人は、自分の考え方から自分一人ではなかなか抜けだせないものなのです。だれかが手を差し伸べて、人は信じられるものだ、と知ってもらわなくてはなりません。その人が興味を持っていること、得意にしていることを聞きだしながら、「ぜひ力を貸してほしいんです」とお願いすると、心を開いてもらえるものなのですね。(『開祖随感』より)

【7月4日 説法無量(せっぽうむりょう)なり】
性欲無量(しょうよくむりょう)なるが故に説法無量(せっぽうむりょう)なり (無量義経説法品第二)〈現代語訳:人びとの機根も、性質も、欲望も、千差万別ですから、それぞれの人に説く教えも、当然千差万別にならざるをえません〉
《庭野開祖のことば》
「性欲無量(しょうよくむりょう)なるが故に説法無量(せっぽうむりょう)なり」というお経文の一節があります。相手の機根がさまざまであるから、それに応じて自由自在に法を説かなくてはならないわけで、これが、いわゆる対機説法です。
 見極めなければならないのは、相手の機根だけではありません。時代の流れを知り、相手の生活環境をよく考慮して、そのうえで法を説かないと、せっかくのご法が救いにならず、逆に相手に負担をかけることになりかねないのです。説法者がなによりも心すべきことでありましょう。(『開祖随感』より)

【7月3日 道風徳香(どうふうとっこう)一切に薫(くん)じ】
 道風徳香(どうふうとっこう)一切に薫(くん)じ 智(ち)恬(しず)かに情(じょう)泊(しず)かに慮(りょ)凝静(ぎょうじょう)なり (無量義経徳行品第一)
〈現代語訳:(絶対の悟りを開かれた大聖主の仏さまは、)そのお徳の尊さは、香り高い香のように、ひとりでにまわりのものの心に沁(し)み入ります。仏さまのお智慧にも、お気持にも、ご自分のために求められるものは微塵(みじん)もなく、お考えはいつも、ものごとの中心にじっと注がれています〉
《庭野開祖のことば》
〈道風徳香(どうふうとっこう)一切に薫(くん)じ〉…たいへん美しい文句です。仏さまは、つねにりっぱな道を行なっていらっしゃる、またいいしれぬ高いお徳を具えていらっしゃる、それがひとりでにまわりのものに感化を与えずにはおきません。そのことを、柔らかな風がすべての人のからだを撫(な)でて気持よくするように、またいい香りがひとしくまわりのものに沁み入るように…と、たとえてあるわけです。おそばにいるだけで、尊いご人格の移り香がいただけるというのです。(『新釈法華三部経』より) 

【7月2日 請(しょう)せざるの師(し)】
 是(こ)れ諸(もろもろ)の衆生の請(しょう)せざるの師(し)(無量義経徳行品第一)
〈現代語訳:招かなくてもわざわざきてくれる、親切な人生の教師でもあります〉
《庭野開祖のことば》
 〈請せざるの師〉…いいことばです。頼まれて、月謝をとって教えにくる教師ではありません。苦しんでいる人たちを見れば、やむにやまれぬ〈慈悲〉の気持から、頼まれもしないのにわざわざ手をとりに行ってあげる…これがほんとうの菩薩というものです。尊いことばではありませんか。(『新釈法華三部経』より)

【7月1日 菩提(ぼだい)の萌(め)を発(おこ)さしむ】
 洪(おおい)に無上の大乗を注いで、衆生の諸有(しょう)の善根(ぜんごん)を潤漬(にんし)し、善の種子(しゅじ)を布(し)いて功徳の田(でん)に遍(へん)じ、普(あまね)く一切をして菩提(ぼだい)の萌(め)を発(おこ)さしむ (無量義経徳行品第一)
〈現代語訳:いよいよ無上の教えである大乗を説いて、人間として本来必ずもっている善の根にしっとりした潤いを与え、芽を出す条件をつくってあげます。また、世のため人のためにつくす行為の本になる善の種子をいっぱいにまいてあげます。そうすることによって、あらゆる人びとに無上の悟りの芽生えを起こさせるのです〉
《庭野開祖のことば》
 どんな人にも仏性がそなわっているのは間違いないのですが、それを放置しておいたのでは仏性は表に現われません。いわば仏となりうる種に水を与え、太陽の熱で温めてあげることで、芽を出し、花を咲かせるのです。それが手どりであり、法座です。(『開祖随感』より)

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