【こころの彩時記20】💐「母の日」
- 2020/5/1
- 自分を創る
5月10日は、今年の「母の日」です。その始まりにはいくつかの説がありますが、1908年、アメリカに住むアンナ・ジャービスさんという女性が、亡き母を追慕するため、教会で赤いカーネーションを配ったのが始まりという話が有名です。
さて、本会がより所とする『法華経』の中に“母”の文字がいくつあるか数えてみました。すると全部で31字ありました。そして、そのうちの半分近くの14字が「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)第二十七」に出てきます。
妙荘厳王本事品では、次のような物語があります。
はるかな遠い昔のこと、妙荘厳王という王さまと、その夫人の浄徳、そして浄蔵、浄眼という二人の王子がいました。この二人の王子は仏道修行に熱心に励んでいて、母である浄徳夫人と共々に仏さまの所に行った上で、出家を許してもらおうとしました。
ところが、母の浄徳夫人は、他教を信じていた父の妙荘厳王を仏さまの所に誘うようにすすめます。そのために自分たちの修行のありさまをさまざまな形で父親に示すようにと、浄徳夫人は二人の王子に告げるのです。早速、自分たちの修行の成果を披露した二人の王子の姿を見て、父である妙荘厳王も仏さまの教えに帰依します。
この浄徳夫人は、夫である父親を立てて慎ましい姿勢を保ちながら、かつ子どもたちの“出家”という大事にあたっては、母親としての毅然とした態度を示しました。まさに、賢明な母親としてのお手本、理想の姿を、仏さまは『法華経』でお示しくださったと思えます。
新潟県の菅沼の山村で生まれ、育った本会の創立者である庭野日敬開祖は、自らの母親のことを次のように述懐されています。
大正十三年六月二十二日、母はついにこの世を去りました。四十三歳の若さでした。わたしはこの日も田植えに出ていたため、死に目には会えませんでした。
一生涯ただ働きに働いて、楽しみらしい楽しみもせず死んでいった母を思うと、今でも涙が止まりません。いい医者にみせてあげたかった。湯治(とうじ)にでも行かせてあげたかった。しかし、まだ経済力のない十七、八歳の未成年にはどうすることもできませんでした。ただ一つの慰めは、若い血にかられて母を置いて再上京しなかったことです。もし、そうしていたら、深い悔いが一生わたしの胸をさいなみつづけたことでしょう。
母というのはかけがえのない存在です。わが子のためなら命を投げ出しても惜しくない、そういった無償の大愛の持ち主です。わたしの母はそのような母でした。そのことに、一生涯どれほど感謝しても感謝しきれない…と思っています。(機関誌『佼成』1986年7月号より)
新型コロナウイルスの影響で外出や、まして帰省もままならない現在。「カーネーション」が例年に増してインターネット通販などによって、それぞれの母親に届けられていることでしょう。
また、電話、手紙、メール、ラインなどといった通信手段で、お礼や感謝の言葉を伝えている人もたくさんいらっしゃることでしょう。
では、すでに他界している私の母には、どのようにして感謝の言葉を伝えようか?。。実は、私にも亡き母への通信手段がありました。
「通信」を“通じるを信じる”と読ませて頂き、ご宝前(ご仏壇)にカーネーションを捧げ、「お母さん、有り難う」と心を込めて言わせてもらいたいと思います。