【特別寄稿4】第2回 生死を見つめて―臨床宗教の視点から― 谷山洋三(東北大学 准教授)
- 2016/12/1
- 明日を創る
我が国の実践宗教学の先駆者のお一人である谷山洋三先生(東北大学准教授)の特別寄稿「生死を見つめてー臨床宗教の視点からー」(全3回シリーズ)。今回はその2回目です。
◇相手の信じていることを認めていく
私は、もともと初期仏教を専門に研究していました。お釈迦さまは、「輪廻」については無記という態度をとりました。黙っていたということですね。しかし、仏典の中には初期経典でも「輪廻」は出てくる。「ジャータカ」(注1)は「輪廻」を前提として物語が展開します。お釈迦さまの無記という態度は、そのお心を思うと、過去は変えようがないし、未来のことは誰もわからない。「輪廻」はあるとか、ないとか、そんなことを考えている時間があったら、《今を大事にしなさい》ということではないでしょうか。
仏教にもさまざまな死生観があります。西方浄土に往生するとか、宇宙の生命と一体になるとか、『法華経』の霊山浄土に往くとか、お迎えがあるとか。臨床では、相手の方がどうおっしゃってきても、私は全部オッケーです。こちらが自分の主義、主張や宗派の教えを押し付けても意味がない。相手に受け入れてもらえて初めて意味がある。だから、まず患者さん自身がどう思っているのかをお聞きして、「そうですね」と認めていきます。
科学の立場に立つと、死んでからのことは有るとも無いともいえません。宗教者も見解はバラバラです。そして確信をもって死後のことを語れる人も少ない。だったら、その人が持っているもの、信じているものをそのまま肯定していく、それしかない。私は浄土真宗で「南無阿弥陀仏」ですが、日蓮宗でお題目を唱えている患者さんには、一緒に「南無妙法蓮華経」と唱えたこともあります。また、クリスチャンの患者さんには、一緒に神にお祈りしたこともあります。「融通無碍」が大切なんです。
では、なぜ私はそのようなことをしても平気なのか?不思議ですよね。これは私の信念ですが、私はもともと宗教は一緒、一つだと思っています。開祖さんが経験されたことは、ほとんど共通しているのではないかと思っています。ある開祖がその経験を言葉にすると、教えが説かれた地域や文化、歴史的な背景によって違いが出てしまうと。私は勝手にそう信じています。
もしも、お釈迦さまがインドではなく、日本に生まれてたらたぶん違うことを説いたでしょう。イエスさまが八十歳まで生きていたら、これもまた違うことを言っていたでしょう。立正佼成会の庭野開祖がもしドイツ人だったら、ぜんぜん違うことを言っていたかもしれません。表現が違うだけで究極は全部同じ。人間が言葉にすると、その時代や土地柄にあわせなくてはならない。その国、その時代に合わせた言葉を使わなくては、いくら真理を語ったとしても記録にすら残らないでしょうからね。その国、その時代に生きる人に通じなくては、まったく意味がない。そういう限定、リミットがかかった状態で教えが伝わってきているのだと思っています。ですから、私は宗教の形式や言葉のちがいをあまり気にしません。逆に、さまざまな宗教を理解していきたいと思っています。
霊魂があるかないかにしても、本人次第で、もし仮に霊魂は存在すると本人が納得していれば、それでいい。なくてもいい。また、教えを信じようが信じまいが、その本人が亡くなる時、「自分の人生はよかった」と思えたなら、周りにいる私たちはそれを認めていけばいい。たとえ、ヒンドゥー教の国インドであっても、マザーテレサが「あなたもキリストと同じ神の子である」といって看取っていく、それでいいんじゃないでしょうか。
◇「臨床宗教師」の役割と限界
中には人間は死んだらどうなるかわからない。わからないから教えてほしいという人もいる。しかし、病院ではほとんど対応してこなかった。対応できる人がいなかった。それは、病院のような公共空間では、宗教に関わることで倫理的に問題がありそうだし、そこに宗教者がいなかった。それで「臨床宗教師」(注2)というものが期待されているのではないでしょうか?
病院で「私が死んだらどうなるのでしょうか?」と尋ねられたとしても、慎重に対応しなくてはいけません。一方的に自分の信仰を伝えてもいけないし、決めつけてもいけない。公共空間の暗黙のルールに従えば、相手が本音の部分ではどのように考えているのかを聞いてみたい。相手が、元々もっていた死後のイメージを言葉にしてもらえたら、そのイメージを肯定すればいい。
しかし、その人がどうしてもイメージできなくて、
「私が死んだらどうなるか、わからないので、教えてほしい」
と尋ねてきたら、それには答えていかなくてはならないですね。
そこでまず大切なのは情報提供です。「私はこう思ってますよ。信じる、信じないはあなた次第ですけど、信じるのであれば一緒に信じていきましょう」という態度で情報提供をします。
ですから、今まで、そういう死に対する倫理的なプロセスをちゃんと作ってこなかった。と同時に、それに対応する職種もなかった。そこに対応していくのが、「臨床宗教師」に対する一番わかりやすい期待感だと思います。
「臨床宗教師」は、原則布教はしませんが、尋ねられた場合は情報提供として「私はこう思います」とお話しするわけです。相手の人と関係性、現場によって変わりますけど、私のために祈ってくれといわれたら、お経をあげることもあります。あくまでもケアとしてです。「臨床宗教師」の範囲というのはその辺までなんです。
どういうことかというと、何かを信じるか、信じないかというのは「宗教者」としての領分です。本人の希望と家族の同意があれば、自分の信仰のお話しをすることになります。ですから、患者さんから教えを説いてくださいと言われたら、説くしかない。その時の立場は「臨床宗教師」から「宗教者」に換わります。臨床宗教師としての関わりをやめて、私の場合は浄土真宗の僧籍を持つ者として立場をしっかりと伝えた上での話です。もちろん、病院によっても対応は異なります。
ただし、これは理想論であって、病院によっては宗教者としての対応が認められない場合もあるでしょう。それは臨床宗教師が決めることではなく、病院の責任者が決めることです。ただし、患者さんにも憲法で保障された信教の自由があるので、よほどの理由がない限りはこのような対応を禁止できないはずです。
もちろん、そのような形式張ったことだけでなく、信頼関係が大切です。医療者、本人、その家族、その関係者との間の信頼関係が大切です。
◇調整役がいるか?
ところが、実際の現場では、末期患者である本人と家族、そして親戚とで意識や考え方が違うことがよくあります。お互いに、当事者の気持ちになれない場合があるんですよね。
患者さんはいつ死んでもいいと思ってても、家族は定まっていないケースも多々あります。逆に家族は死んでもいいと思ってても、本人が死を受けいれられないということもあるし、合わないことが多いですね。
そういう時に、一番説得力があるのは、その患者さんを診て来られた医師ですね。でもそれって本来は医師の仕事ではない。本来は、ソーシャルワーカーさんの仕事です。でも、日本には、間に入って調整役を担ってくれるソーシャルワーカーさんは少ないです。そういった意味では、日本は本当に貧困ですね。民生委員もソーシャルワーカーの仕事を担っていますが、ボランティアです。本来であれば、プロとして収入をしっかりと得てするべきことでしょう。また、ケアマネさんもソーシャルワーカーの仕事をしますが、介護のことだけです。社会の中でまとめ役であったり、調整役であったりを、仕事としている人がいないというのが、この国の問題だと思います。
かつて我が国にも地域コミュニティ(注3)が残っていた時代には、庄屋さんであったり、長老さんであったり、神主さんや僧侶だったりが、調整役を担っていました。しかし、地域コミュニティが崩壊して、そういう人が今はいなくなってきている。日本でも、もっとソーシャルワーカーという存在がクローズアップされるべきだと思います。臨床宗教師も大切ですが、ソーシャルワーカーも同じくらい大切だと思っています。
(次回に続く)
※次回は2017年1月1日の更新、最終回を迎えます。どうぞお楽しみに。
(注1)ジャータカ
仏教でいう前世の物語のこと。本生譚(ほんしょうたん)ともいう。十二部経の1つ。我が国では斑鳩の法隆寺蔵の国宝「玉虫厨子」に、ジャータカ物語として「施身聞偈図」の雪山王子や、「捨身飼虎図」の薩埵王子が描かれていることが著名である。(注2)臨床宗教師
2011年3月の東日本大震災発生後、人々の心のケアのために「宮城県宗教法人連絡協議会」により「心の相談室」が開設された。また、緩和ケアを実践していた医師の岡部健により、日本においても終末期患者に寄り添う宗教者の存在が必要との考えにより、「心の相談室」の初代室長として、当時事務局を務めた鈴木岩弓らと尽力し、東北大学文学研究科において、2012年4月実践宗教学寄附講座が創設された。同講座は、同年10月から臨床宗教師を養成する研修を始めた。研修を受講できるのは宗教者だけであるが、僧侶、神職、牧師、新宗教の教師なども受講している。現在では龍谷大学実践真宗学研究科や種智院大学、武蔵野大学などでも実施されるようになった。
2016年2月、これらの研修の修了者と主催する諸団体により、「日本臨床宗教師会」が発足した。(注3)地域コミュニティ
地域住民が生活している場所、すなわち消費、生産,労働、教育、衛生・医療、遊び、スポーツ、芸能、祭りに関わり合いながら、住民相互の交流が行われている地域社会、あるいはそのような住民の集団を指す。