「いのち」の尊さを伝えたい!!(最終回)熊谷 融(日本画家)
- 2018/5/1
- 明日を創る
宮城県仙台市に在住の日本画家 熊谷融(くまがいとおる)先生にご登場いただき、熊谷先生のご体験ならびに絵に込められた思い、願いについて語って頂くシリーズ。今回はその3回目、最終回です。
◇20代に見出したライフワーク
私が絵画に興味を抱いたのは、宮城県岩沼市立岩沼北中学校の学生の時、当時、美術を担当されていた志賀一男先生がいらっしゃいました。志賀先生は版画がお得意で、学校の玄関に自ら彫り、刷った版画をいつも掲示していました。いつしかその版画の魅力につかれた私は、画家をめざしていました。
進学した宮城県立名取高等学校では、先輩の誘いで陸上部に入部し、インターハイに出場した私は、400メートルリレーで準決勝まで残ったという自分でも信じられない成績をおさめました。周囲はそのまま陸上の道に進むのかと思っていたようでしたが、画家になりたい私の心は変わらず、日本画の巨匠である横山大観先生の「海山十大」といった作品や、シルクロードの絵で有名な平山郁夫先生の絵を雑誌などで目にするたびに、私の願いは日増しに強くなっていきました。
そして、私は愛知県立芸術大学(昭和41年4月1日に開学)に入学し、当時、日本を代表する日本画家の一人と言われていた片岡球子先生(注1)のもとで本格的に日本画を学びました。
その時の1学年後輩が、妻の理慧古です。
卒業後、結婚をし、前述の通り長男の誕生と共に故郷の宮城県に帰った時、私は私自身の、そして日本の原風景を東北の地に見出しました。
また、20代の頃、宮城県加美町にある「縄文芸術館」を訪れました。「縄文芸術館」は、縄文人の心と造形に深く傾倒する詩人 宗左近氏から縄文土器、土偶約200点が寄贈され、1988年に開館された美術館です。
私はそこに展示されている「縄文土器」の釉薬が焼けたあとの黒い炎のようなシミを見た時、私はそのシミの中に私が求める日本の原風景が見えてきました。私にとって大きな衝撃でした。
“このシミの中に私がみた風景を日本画で表現したい”
これが20代の頃に心に決めた私のライフワークです。
◇「いのち」の不思議な力
故郷の宮城県に帰ってからは、自分が見える風景と《まさに対決する》という真剣な心で向き合い蔵王の四季、そして松島海岸の四季を中心に描いてきました。そのような中で、「いのち」の不思議な力を教えてもらう出来事がありました。
東日本大震災が起きた2011年の春も、普段と変わらず松島に出かけて風景のスケッチをしていました。特に、桜の名所として知られる「西行戻しの松公園」(注2)からの松島海岸の景色は、私が最も日本の原風景を感じるところでした。
ところが、その年の春は3月の上旬に行っても、公園の桜に花の蕾がまったくついていないのです。そんな不思議な光景を見た矢先の11日に震災が発生しました。結局、その年は公園の桜の花が咲きませんでした。桜の樹々は震災が起きることを予知していたのでしょうか?まさに、「いのち」の不思議さを思いました。
その翌年、「西行戻しの松公園」の桜は、また見事な花を咲かせました。私は感動し、公園の展望台から見える桜満開の松島海岸の夜明けを描いたのが、「桜花松島図」です。昇りくる朝日を受けて光り輝く桜の花に、私は「いのち」の輝きを見ました。
◇芸術が持つ力と私の願い
現在、私は家内と立ち上げた「アトリエクマガイ藝術学院」の塾長としても、絵画を始めとした芸術を志す青少年育成の一助をさせて頂いています。三十七年目を迎えた今年、合わせて500名以上の若者が塾で学び、さまざまな美術の大学、学校へと進学し、そして社会へとはばたいていきました。
その姿は、前回ご紹介した私の絵の原点である「暁明松島」で描かせてもらったアゲハ蝶のように、「いのち」がはばたいていったと思っています。
また、家庭や美術以外の仕事を持つことで、美術の世界から離れてしまった当塾卒業の女性のために、2013年より「女の子たちのエチュード」という展覧会を年1回、当塾主催で開催しています。日常の忙しさで美術から離れてしまった女性たちが、もう一度絵筆をとって作品を創り、一般の方に展覧してもらいます。
昨年は、17名の卒業生の皆さんが作品を持ち寄り、活気あふれる展覧会が開かれました。
私は芸術には、人に「希望」や「勇気」や「安心」を与えていく、いわば生きる力が宿っていると思います。創作する側の「いのち」の力が観る者に伝わり、観る者の感動が創作する側にもまた希望と勇気を与えてくれます。
私は私の描いた絵をみて、何かを感じてハッとしてもらえる絵を描いていきたいと思います。その根底にあるのは自らが持つ「いのち」の尊さ、素晴らしさ、輝きに気づいてほしいと願っているからです。
それはまさに、《生きる力》であるといえるかもしれません。その《生きる力》を私の絵を通して得て頂けるなら、画家としての私の本望であります。
有り難うございました。
(了)
(注1)片岡球子
日本画家。札幌市に生まれる。1926年(大正15)女子美術学校(現女子美術大学)卒業。1930年(昭和5)に初めて院展に入選し、日本美術院の研究会員となる。1946年(昭和21)に安田靫彦(ゆきひこ)に入門。1951年日本美術院同人に推された。1966年第51回院展に『面構(つらがまえ)・足利義政(あしかがよしまさ)』を出品してから「面構」連作が始まり、史上の人物や浮世絵師を主題にし、土俗的な素朴さと迫力のある表現を押し進めた。1975年、前年の院展に出品した『面構』で日本芸術院恩賜賞を受賞した。1989年(平成1)文化勲章受章。(「日本大百科全書」より引用)
(注2)「西行戻しの松公園」
西行法師が諸国行脚の折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、松島行きをあきらめたという由来の地。 この公園の一帯は260本余の桜の名所で、展望台からは桜と松島湾の景色が一体となった、他に類をみない花見が味わえます。(「松島観光協会HP」より引用)
【プロフィール】
熊谷 融(くまがいとおる)
1958年 宮城県岩沼市に生れる
1981年 アトリエクマガイ藝術学院 開校
1984年 「第39回 院展」初入選
1986年 愛知県立芸術大学大学院日本画研修科修了
2011年 第14回 絵のまち尾道四季展 金賞(準グランプリ)
《現 在》
日本美術院院友、宮城県芸術協会会員、アトリエクマガイ藝術学院塾長。
愛知県立芸術大学時代、片岡球子画伯(1905-2008 昭和-平成時代の日本画家。芸術院会員。平成元年、文化勲章受章)に師事し、同窓の理慧古夫人も、現在、日本画家として活躍している。