今月12月の『佼成』会長法話は「清々(すがすが)しい毎日をおくる」がテーマで、法華経の「法師功徳品第十九」についてのご法話です。
この品には、法華経の教えを実践し、世に弘める人は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が清らかになると説かれていて、次の二つの意味があります。
第一は、「法華経の教えを行ずれば、心身ともにこのような高い境地に上がれるのだから、一心に行じなさい」という励ましの意味です。
第二は、「仏さまの教えを説きひろめる大切な役を果たすためには、このような〈真実を知る力〉をそなえている必要がある。その境地に達するまで、つねに自分を反省し、思いあがることなく修行の道を歩みなさい」という戒めの意味です。
あなたは、「毎日を清々しくすごす」ことができているでしょうか?
それができたら気分がいいに違いありませんし、幸せな人生だと思います。人の善いところが見えて悪いところを探す気持ちが起きない、なんでもおいしくいただける、読経供養が習慣となっている、人と会うと思わず合掌してしまう・・・。六根が清らかになるとは、このような心境・感覚になることなのでしょう。
六根の最初に出てくる「眼根を清める」とは、「この世界の真相がハッキリわかるようになる」という意味で、心が澄みきって、我がないために、先入観や主観によってものごとの真相を歪めて見ることがない。また、心が平静で、あらあらしい感情の波が立っていないために、ものごとのありのままの姿が正しく目に映ることだと説かれています。(新釈法華三部経十巻)
私たちは目でものを見ていると思っています。しかし、本当は心で見ているのです。その時の心の状態に応じてものの見え方が変わってくるのです。よって、悩みや問題を解決するために、一生懸命に状況を変える努力をするだけでは根本的な解決にはなりません。心を変えない限り、解決しないのです。
家にひきこもって働こうとしない子どもに対し、何とか仕事をして自立してほしいと願い、一生懸命精進されている方がいました。しかし、何年たっても子どもは自立しません。いつまで精進したら子どもは変わるのか。変えようとがんばるほど苦しくなります。苦しくて、苦しくて、何度もくじけそうになります。
ある日、自分の力でどんなにがんばってみても、どうにもならい苦しい思いを感じたとき、子どもの苦しい思いが少し理解できたように感じました。苦しんでいるのは自分だけではない。子どもはもっと苦しい思いをしているのかもしれない。それは、心が自己本位の見方から相手本位の見方に立てた瞬間だと思います。
私たちは、さまざまな苦しい経験をします。そうした経験を繰り返すことで、すべての出来事は、自分の心次第だと気づくことができるのかもしれません。そう気づけたら、解決は簡単です。状況に惑わされず、自分の心を変えることに腹を据えればいいのです。
「法華経の教えを持つものは、心が清浄なために、さまざまなはたらきができて、たとえ迷いがすっかりなくなっていなくても、高い境地に心安らかにとどまり、多くの人に親しまれ、敬われることでしょう」(「佼成」16頁)と記されています。
仏道を信仰するとは、神仏を拝んで自分の願いをかなえることではありません。神仏に頼って悩みを解決してもらうことでもありません。
六根を清め、清々し毎日がおくれるような心になることです。そうなれば、さまざまな出来事に振り回されなくなり、心穏やかにすごすことができます。そして、多くの人に親しまれ、敬われるようにもなるのです。その心境に達するまで精進することが「法師功徳品第十九」の主旨なのです。
合 掌
2020年12月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則