今月の『佼成』8月号の会長法話は、「むだなものはない」がテーマ。法華経の中心である「如来寿量品」についてのご法話です。「如来寿量品」は、仏さまの本体(真実の姿)とそのはたらきについて説かれた品です。その要点は次の通りです。
第一に、仏さまの本体は、久遠実成の本仏(すべてを生かしている宇宙の大生命)であり、常にこの世におられるということ。
第二に、久遠実成の本仏が常にこの世におられるということは、いついかなるときも私たちと共にいて、私たちを生かし、導いてくださっているということ。
第三に、仏さまと衆生は親子であり、私たちも仏さまと同様に永遠に生きとおしであること。
こういう自覚がしっかりと胸のなかに確立すれば、私たちの人生はどのような変化にも動揺することなく、不安のない、勇気と積極性に溢れたものとなるのです。《如来寿量品》が、《法華経》の精髄であり、一切経の魂であるとされている理由は、ここにあるのです。
こうしたことをふまえた上で、「佼成」8月号のご法話をかみしめてみましょう。
「私たちはすでに悟っていると、教えられています。・・・では、なぜ精進をつづけるのかといえば、私たちがときどき自分の本質を忘れてしまうからです。悟っているほんとうの自分に帰るための精進、それが日常の信仰生活なのです。」という言葉が記されてあります。
私たちはすでに悟っていると聞いて、すぐに納得できる人は少ないと思います。しかし、法華経には「もともと仏と衆生は親子であり、私たちはみな仏性をそなえている。そして、仏と同じように、永遠に生きとおしの存在であること」が説かれているわけです。それこそが、自分の本質・ほんとうの自分ということです。
でも、私たちは、そのことを忘れてしまっている。忘れているわけですから思い出せばよいわけです。私たちが、日々人のことを心配したり、喜んでほしいと願って精進したりしているのは、忘れている自分の本質・ほんとうの自分を思い起こすための実践なのです。
また、次の言葉も重要です。
「いいことも悪いことも含めたこの世のあらゆるできごとが、ほんとうの自分に帰って幸せを味わうためのヒント、縁になるということです。」
「この世にむだなものごとは何一つなく、その一つ一つがほんとうの自分、すなわち仏に帰る縁となるのです」
私たちは、不都合なできごとが起きると悩み苦しみます。なぜこんなことになったのかと人を責めたり、神仏を恨んだりもします。この世のあらゆるできごとが、好・不都合かかわらず、すべてが仏さまの説法であり、自分の本質・ほんとうの自分を思いおこさせてくれるための機縁だということです。すぐにそう思えなくても、必ず後になって気づけるものです。なぜならば、それが仏さまの説法であり、私たちはみな仏の子であり、仏性という宝物を持っているからなのです。
ある方からお手紙をいただきました。その方は、ある日突然ガンの宣告を受けたそうです。深刻な状況でしたが、希望を持ち、家族やサンガの祈りを支えに懸命に治療に専念していました。でも、不安や恐怖をどうすることもできず、苦しい時がありました。人の目や言葉に怯え、家に閉じこもる日もありました。そんなある日・・・、
ん・・・待てよ!
私、今、生きてるじゃん!
私は何に怯えているんだ?
毎日、無くなっていく髪の毛が心配?
カツラかぶって、おしゃれすればいいじゃん!
私は生きている、目も見える、耳も聞こえる、歩ける、何だって出来る!
何も恐れることはない!
神様、仏様、ご先祖様に念じ、後はお任せ・・・。
私は生きている・・・、いや生かされている。
先の事を心配しても仕方が無い!
今を、精一杯の感謝で、生きていこう・・・こう思えるようになりました。
というような言葉がつづられてありました。
絶望の中にありながらも、今を精一杯生きている様子がビンビン伝わってきました。なんてすごいんだろう!とても驚きました。とても感動しました。
「この秋は 雨か風かは知らねども 今日のつとめに 田草取るなり」
これは二宮尊徳翁の歌と言われます。先のことはよく分からないけれども必要以上に憂えず、日々のなすべきことを着実に行っていく。これは法華経の教えに通じた生き方であり、新型コロナの感染が長引く今の時代にぴったりの心構えだと思います。
合 掌
2020年8月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則