今月の会長法話も「観世音菩薩普門品」に因(ちな)んだものです。テーマは、「慈しみの眼をもって」。
お経の言葉「慈眼をもって衆生を視る 福聚の海無量なり」
その意味は、「相手をやさしい思いやりの心(慈悲の心)で見ると、数えきれないほどのありがたいことがあつまってくる」です。
逆を言うならば、自分の周囲にありがたくないことばかりがあつまっていると感じるときは、やさしい思いやりの心が失われているときかもしれません。私自身、どんな時にやさしい思いやりの心を見失ってしまうかをふりかえってみました。すると、次のような場面が浮かんできました。
まず一つ目は、忙しい思いをしている時です。心に余裕がなく、イライラ・カリカリしているときです。こうした時は、相手の話を聞いているようで、心は別のものに向いています。どうも日本人は、忙しいことが善だと考えている方が多いようです。「忙」という字は、「心を亡(な)くす」という意味であり、要注意です。
コロナのお陰さまで自粛体制となり、忙しさが幾分減りました。その分、やさしさが増したようにも感じます。しかし、徐々に本部や教会の動きが活発になりはじめてきています。それに伴い、以前のような忙しさがもどってくる可能性があり、注意しなければならないと思います。
二つ目は、問題解決を考えている時です。相手が「どうしたらこの問題が解決できるか教えてください?」と訊いてくると、「このようにしたら大丈夫ですよ!」と、反射的に解決方法を考え、伝えてしまう。それで問題が解決すると、万事がうまくいったように錯覚し有頂天になりがちです。
しかし、問題を解決することも大切なことですが、そのご縁を通して、私自身のやさしさや思いやりの心を育てることが大事だと思います。
庭野開祖は、「平和な包容力に満ちたやさしく暖かい人格の象徴である観世音菩薩を思い浮かべることによって、自然と心が和やかに明るくなり、いかなる困難も悠々と対処でき、争いごともなくなり邪心もたちまち消えてしまう」と教えています。
「観世音菩薩普門品」には、観音さまを念ずれば、火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・賊難の七難を避けることができ、また生・老・病・死という人生の四苦からも逃れることができると説かれています。これは、単に観音さまを念ずればよいという意味ではなく、観世音菩薩のようなやさしい思いやりの心になることで、困難な問題が自然と解決の方向に進むという意味だと思います。
三つめ目は、ものごとの成果、効率を考えている時です。現実の社会生活をする上で、成果や効率を考えることは必要なことでしょう。効率的に仕事をすることで成果が上がり、経済が発展し、生活が向上していることも事実です。しかし、そのことを追求しすぎてしまうと、人間本来のやさしや思いやりの心から遠ざかるように思います。そのことが、現代社会の多くの問題を生じさせているのではないでしょうか。
病気に感染したニワトリが何万羽も殺処分されているニュースを目にすると、いのちより経済効率が優先されていると感じます。殺処分されることは、やむ得ないことかもしれません。しかし、こうした場面にふれたとき、心が痛むのが人間らしい人間であり、信仰者だと思います。
信仰するということは、人間本来のやさしさや思いやりの心を失わず、心豊かな人間になることです。
今月のご法話で最も印象に残った言葉は、「だれのなかにも、観世音菩薩と同様の深い慈悲心が流れていると見ること」でした。「だれのなかにも、観世音菩薩と同じ深い慈悲心がある」とは、「だれもが仏性をもっている」と同じ意味だと思います。相手の表面の言葉や態度の奥にある尊い心を信じ、心に安らぎと希望を与えるふれあいを心がけていきましょう。
合 掌
2021年7月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則