8月『佼成』誌の庭野会長の法話は「まず自分から」というテーマです。この中から私が強く感じたことをいくつかお伝えします。
(1) まず、「人の捨てたゴミのことで、自分の心まで汚すことはない」
他人の捨てたゴミを目にして、ゴミを捨てたという行為を責め、捨てた人そのものへの嫌悪や憎悪までも感じてしまいます。しかし、自分の心を汚すのも清浄にするのも自分次第であることを実感。自分で自分の心や人格を汚さないよう、細心の注意をはらい怠らないことが大切だと思います。
(2) 「大自然が無償の恩恵を注ぐように、困っている人がいたら自然に手を差しのべ、汚れている場所があれば率先してきれいにする。そしてそれが楽しいという以外、何もとらわれるものがない」
私が最近よく口にすることば・・・それは『本気』。まさに「自ら」という主体性・自発性を表現したもの。「人から言われたから」「仕事だから」「役割だから」「周囲がそうしているから」と、受動的な生き方からの脱却を意図するものです。『本気』になれば、大変なことも楽しみになってくる。楽しくないのはまだ『本気』になっていない証拠ではないか。『本気』で仕事をする、『本気』で家族を愛する、『本気』で信仰する、『本気』で遊ぶ。こういうふうに生きることができれば、本当に幸せな人生だと思います。
(3) 「平和という意味では、積極的な行動だけがそのための「実践」ではなく、批判したくなるような人や許し難い人を包容していくこと、そういう意識の変革も、私たちの大切な実践行」
国際的なテロや国家同士の衝突が頻発しています。また日本国内でも、憲法・TPP・経済政策などについて、主張が真っ向からぶつかる場面が多々あります。巧妙かつ強引に進める首相のやり方に対して、時として許し難い感情が芽生えてきますが・・・、心は汚さぬように・・・汚さぬように。
これらのことばは、禅語の「随処に主となる」にも通じるように感じます。また、稲盛和夫先生の『京セラフィロソフィ』には、「会社というのはトップの器以上にはならない」ということばがあります。「我が家は私の器以上にはならない」、「仙台教会は教会長の器以上にならない」、そして「私の人生もこの世界も私の器以上にはならない」ということでしょうか。
合掌
平成28年8月1日