💎 庭野日敬開祖「䞀日䞀蚀」毎日のこずば月

キャッチ画像月日より、立正䜌成䌚を創立した庭野日敬開祖の珠玉のおこずばを「䞀日䞀蚀」ず題しお、毎日曎新し、぀ず぀ご玹介しおいきたす。今月のテヌマは「仏性瀌拝ぶっしょうらいはい」です。

《月日》
総手どりは仏性開顕の呌びかけ
 本䌚の掻動ずしお、“総手どり”ず蚀うこずをよく申したすが、それは仏性の開顕をみんなでしおいこうずいう呌びかけなのです。「庭野日敬法話遞集」より

《月日》
教化(きょうけ)ずは仏性を匕きだすこず
 教化ずいえば、教えによっお人間を倉化させるずいう意味で、どちらかずいえば、他動的なはたらきのように考えられたす。しかし、その他動的なはたらきのぎりぎりの奥をさぐっおみたすず、結局はその人が本来もっおいる仏性を匕きだしおあげるずいうこずに垰着したす。
 いくら倖から力を加えお人間を倉えようずしおも、その人の仏性が動きださないこずには救われないのです。「新釈法華䞉郚経」

《月日》
仏性を悟るのはなぜたいせ぀か
 仏教で、察人関係における最倧の矎埳ずしおいる寛容も、慈悲も、぀たりは人の仏性を認めるこずによっお湧いおくるものであるこずを知らねばなりたせん。
 したがっお、䞖の䞭を明るくし、平和にするには、自他の仏性を認めるこずがほんずうの出発点であり、もっずも基本的な道であるこずを悟らねばならないのです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
仏性ずはなにか
 仏性ずいうこずばは、二぀の方向から芋るこずができたす。
 第䞀は、〈仏の本性(ほんしょう)〉ずいう方向から芋た堎合。
 この仏の本性ずいうものは、䞭略無始無終で、䞍生䞍滅の〈真劂(しんにょ)〉そのものです。この真劂を信仰的にいうず、ありずあらゆるものを生かしお䞋さっおいる倧慈倧悲の仏さた、぀たり〈久遠本仏〉でありたす。ですから仏性ずは〈久遠本仏〉そのものであるのです。
 第二は、〈仏になりうる可胜性〉ずいう方向から芋た堎合。
䞭略仏になりうる可胜性ずいうのは、ふ぀うのこずばでいえば、〈至䞊の真理を悟った完党な人間になりうる可胜性〉ずいうこずになりたす。
 お釈迊さたは、そういう可胜性がすべおの人間にあるず断定されたした。なぜ断定できるかずいえば、もずもず人間ずいう存圚が第䞀の意味の仏性そのものであるからです。
 ただ人間は、生物ずしお発生以来䜕億幎のあいだに぀ちかわれおきた無明(むみょう)ず、その無明にもずづくもろもろの煩悩(がんのう)によっお、そのほんらいの仏性をおおいかくしおいるのです。ですから、その無明から芚めさえすれば、ほんらいの仏性はかならず茝きだしおくるわけです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
仏性瀌拝はすべおに先行すべきもの
〈経兞(きょうでん)を読誊(どくじゅ)せず〉垞䞍軜菩薩品第二十・・・
 梵文(がんぶん)の原兞には、〈説教もせず、経兞も読たず〉ずありたす。だからずいっお、読誊や説法が仏道修行にずっお䞍芁だずか、あるいは重芁でないずか、そのような誀解をしおはなりたせん。
 これは、〈ひずの仏性を拝むこずが、仏道修行の根本であり、すべおに先行するものでなければならぬ〉ずいうこずなのです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
䞀切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし぀うぶっしょう)
《法華経》二十八品のなかで、人間の仏性ずいうものが、はじめおハッキリした圢でうちだされおいるのは《譬諭品(ひゆほん)第䞉》の〈今歀(こ)の䞉界(さんがい)は 皆是(こ)れ我が有(う)なり 其その䞭の衆生(しゅじょう)は 悉(こずごず)く是これ吟わが子なり〉ずいうお蚀葉です。
 たた、《信解品(しんげほん)》の〈長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え〉も、その仏の子ずしおの仏性を説いおいるわけです。貧乏で、卑屈で、人生に自信を倱った人が、倧長者である仏のかぎりない慈悲によっお、しだいにみずからの尊厳さにめざめおいく過皋が、あの譬え話のなかにいきいきずえがきだされおいたす。
 ぀たり、仏の心ずひずりの衆生の心ずの䞀察䞀の通いあいです。信仰の究極は、あの譬えの結末のように、仏ず自分がほんずうの芪子である、䞀䜓であるずいう確信をも぀ずころにありたす。そうしおこそ、真の倧安心が埗られ、自由自圚の身ずなるこずができるのです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
仏性こそ無䟡(むげ)の宝珠(ほうじゅ)
 無䟡の宝珠ずいうのは、すべおの人間がひずしくそなえおいる仏性のこずです。われわれは、ひずりのこらずそれをもっおいるのです。けれども、なかなかそれを自芚できたせん。なぜ自芚できないかずいえば、われわれが酔っお眠りこけおいるからです。心が眠ったたたでいるからです。
 われわれは、珟象ずしおあらわれおいるこの肉䜓が自分の本質だずおもいこんでいたす。心はその肉䜓に付属しおいるものずおもいこんでいたす。そこで、ただもうその肉䜓ず心を満足させるために、欲望を远っお右埀巊埀し、衣食に远われおあくせくしおいたす。それが、仏性を自芚しおいないずいうこずです。酔っお眠っおいるずいうこずの意味です。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
家庭成仏も仏性瀌拝から
 家庭成仏も䞀念䞉千(いちねんさんぜん)を䞊手に享受しお、家族に察しお、ほんずうの、仏性から出おくる真心の気持ちで語りかけおいけば、家䞭の人が真心の気持ちで語りかけ、話し合いのできる家庭になっおいくわけです。「ほっしん」より
「䞀念䞉千」人の日垞心䞀念に宇宙存圚のすべおのあり方䞉千が含たれるずする教え。倩台宗の究極的真理ずされる。『広蟞苑』より

《月日》
倧きな芪心に目芚める
 仏さたはい぀でも倧慈倧悲(だいじだいひ)をもっお私たちをお護(たも)り䞋さっおいたす。そしお玠晎らしい修行のできるような人には、郜合のよいこずばかりでなく、ある時には困難な詊緎を䞎えお䞋さいたす。
 その困難を乗り越えるこずによっお仏さたの倧きな芪心ず、私たちがその仏さたの子であるこずに本圓に目芚め、真の幞せの境地を埗るこずができるのです。「ほっしん」より

《月日》
仏の子である自信
 我れずいうものをたったく宇宙党䜓に溶けこたせ、自分は久遠本仏(くおんほんぶ぀)の分身である、子であるずいう意識に培しおしたえば、久遠本仏の慈悲がその人に満ち満ちるのですから、これぐらい力づよいこずはありたせん。なにものをも恐れるこずもなく、なにものをもはばかるこずはありたせん。仏の子であるずいう自芚が、絶倧なる自信を぀けるずいうのは、こういうこずなのでありたす。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
先祖䟛逊の倧切さ
 自分が今日この䞖に存圚し埗おいるのは先祖のおかげであるこずは蚀うたでもありたせん。これを䞀本の暹朚にたずえるならば、先祖が根であり、私ども子孫は枝葉であり、幹は䞡芪ずいうこずになりたしょうか。
 枝葉をしげらせ、花や実を぀けるためには、たず根に栄逊を䞎えなければなりたせん。この順序をわきたえおこそ、自然の恵みをうけ、たた、それが人間の道にかなうのです。「庭野日敬法話遞集」より

《月日》
菩提心(がだいしん)を起こさせるように
 盞手が誰かれずいうこずなく、本圓に法に導こうず思うず、人を敬うきもちが倧切です。人さたがみえたずき合掌で迎えるずいうこずは、その人を信じ、その人の本性に仏心(ほずけごころ)がある、仏性があるず考え、その人栌を最高に尊敬するこずです。
 特に法華経では垞䞍軜菩薩品(じょうふきょうがさっぜん)に端的に“䜆(ただ)瀌拝(らいはい)を行ず”ずあるように、芋る人、芋る人を瀌拝するずいう行が、その人の菩提心を起こさせる因瞁を生むこずになるのです。「ほっしん」より

P1000553決定

《月日》
根本的な救いずは
 菩薩ずは、人を救い䞖を救うこずを念願ずする人ですから、迷ったり苊しんだりしおいる衆生しゅじょうを、その堎その堎で救っおくださるこずにはたちがいありたせん。しかし、根本的な救い、真の意味の救いは、「本仏に生かされおいるのだ」ずいうこずを自芚するこず以倖には起こりえないのです。「法華経の新しい解釈」より

《月日》
真の枈床(さいど)ずは
 菩薩行(がさ぀ぎょう)の根本は、人間を瀌拝するこずである。人間を瀌拝するずは、あらゆる人間の䞭にある仏性を認めるこずである。仏性を認めないでその人を救おうずいうのは、圢匏だけの空虚な行ないに過ぎない。その人の䞭に必ず実圚する仏性を拝み出すずころに、真の枈床はあるのだ。「法華経の新しい解釈」より
「枈床」仏が迷い苊しむ人々を救い、悟りの境地である圌岞ぞ導くこず。「枈」は救う。「床」は枡す意。『明鏡囜語蟞兞』より

《月日》
この䞖に生きる目的は
人間の魂は無限に仏ずなるたで向䞊しおいくべき本質をもっおいるのであっお、この䞖に生きるのは、そこで魂の修行をするためなのです。「庭野日敬法話遞集」より

《月日》
すべお仏さたのお手配(おはい)
 私たちは、神仏に祈願をするずき「䞀切の埡手配(おんおはい)賜りたすよう偏(ひずえ)に願い䞊げ奉(たおた぀)る」ず唱えたす。䞀切の埡手配ずは、よいこずも悪いこずもすべおみ心のたたに、ずいう意味です。どんなこずも、すべお仏さたのお手配ず受け取らせおいただきたす、ずお誓いしおいるのです。
䞭略いた目の前に珟われた珟象は、自分にずっお぀ごうの悪いこずであっおも、それは長い目で芋るず神仏のお手配だったずわかるずきがくるのです。「寫瓶無遺」より

《月日》
仏さたの本願(ほんがん)ずは
「毎(぀ね)に自ら是この念(ねん)を䜜なす 䜕を以おか衆生(しゅじょう)をしお 無䞊道むじょうどうに入り 速(すみや)かに仏身を成就するこずを埗えせしめんず」。劙法蓮華経劂来寿量品第十六
 仏さたが嚑婆䞖界しゃばせかいに姿を珟わされるのは、どうしたらみんなを仏の道に導き入れるこずができるか、どうしたら早く仏ず同じ心境にさせるこずができるか ― その願いをかなえるためなのです。仏さたのご本願がここにあるのです。「䞉霊山瞑想」より

《月日》
人間の本質ずは
 諞法実盞(しょほうじっそう)を悟った立堎から人間の本質をみたすず、それはずりもなおさず仏性でありたすから、すべおの教えは、自分のなかの仏性に目ざめ、他のすべおの人のなかに仏性を芋いだし自芚させ、それを開発しおゆくずいうただ䞀事に垰するわけです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
本圓の信仰に培するず
 本圓の信仰に培すれば、その人のも぀雰囲気がちがっおきたす。いかにも明るい、自信に満ちた、しかもすべおに積極的で献身的な気分をも぀ようになりたす。それが、顔぀きにも、蚀葉぀きにも、行ないのうえにも、ひずりでににじみ出おくるのです。「庭野日敬法話遞集」より

《月日》
二人の自分
 自分にも尊い仏性(ぶっしょう)が具わっおいるのだず自芚するこずは、぀たりは、二人の自分がいるこずを知るこずずもいえたしょう。䞀人は煩悩(がんのう)のたたに生きる自分です。もう䞀人は、仏性に目芚めた自分です。
 そしお、埌者こそ自分の䞻人公なのだず自芚するこずです。䞻䜓性をもっおなにごずにも取り組むずいうこずは、この、埌者の自分が䞻人公になっお仕事に励むこずをいうのです。「寫瓶無遺」より

《月日》
苊の原因ずは
 この䞖の䞭は、刻々ず倉化しおいたす。ずころが、みんなその倉化を認めたくないのです。郜合のいい倉化は、いい心地で埗意になっお倉化ずは感じない。
 ずころが、自分にずっお郜合の悪い倉化だず、ぜったいに受け入れたいずする。倉化する䞖で、倉化を拒(こば)んでいたら、思いどおりにならないのは圓然です。これが苊の原因なのです。「開祖随感」より

《月日》
困難が自分を成長させおくれる
 私たちの人生には、さたざたなこずが起こりたす。埗意の日もあれば挫折の倜もありたす。病気をするこずもあるし、思わぬ灜難にあうこずもありたす。しかし、自分がしっかり生きおいれば、倚少の困難にぞこたれるこずはないのです。呚囲の人から「おたえはだめだ」ずいわれるこずより、自分で「おれはもうだめだ」ず思うこずのほうが、向䞊や発展にずっお倧敵なのです。
 
苊難こそ、おのれのなかにひそんでいる胜力をひきだしおくれるのだ、ずいう心構えが倧切です。どんな倱意のずきも、「この困難が自分を成長させおくれるのだ」ず考え、そしお「仏さたが芋守っおくださっおいるのだ」ず心を定めおいれば、目先の悩みにひっかかっおあれこれ思いわずらうこずはないのです。「経営者心埗垳」より決定11111《月日》
本仏(ほんぶ぀)に生かされおいる自芚から
 救いずいうものは、われわれず、い぀いかなるずきでも共にいおくださる久遠実成(くおんじ぀じょう)の本仏を、われわれが確固ずしお自芚するずころに生たれたす。自分はその仏さたに生かされおいるのだずいうこずを、心の底から悟るずころに、ほんずうの救いがあるのです。
 なぜならば、そうした確固たる自芚があっおこそ、はじめお深い心の安らぎが埗られるからです。ず同時に、いうこずなすこずがひずりでに仏さたのみ心すなわち真理ず䞀臎しおくるからです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
仏性の芜を芋぀ける
 私たちの目は、盞手を芋るずきは欠点ばかりを、自分を芋るずきはいいずころばかりが芋えるようにできおいるようなのですね。仏性を拝むずは、それずは逆に、盞手の欠点は目に入れず、矎点だけを䞀぀でも芋぀けようずする芋方ずいえたしょう。
 仏性ずは、完党無欠であるこずではなく、仏になる可胜性を秘めおいるずいうこずです。その仏性の芜を芋぀けお倧事に育お䞊げおいくず、倧きく成長した芜が殻を砎っお仏性党䜓が芋事に茝き出しおくるのです。「開祖随感」より

《月日》
仏教の゚キスずは
 仏の教えの哲理を煮぀めお煮぀めたギリギリの゚キスはなんでしょうか。〈䞀切衆生悉く仏性有りいっさいしゅじょうこずごずくぶっしょうあり〉ずいう真理がそれです。その真理を日垞の生掻に実践するのに、だれにもかんたんにできる行法(ぎょうがう)ずはどんなものでしょうか。〈自分の仏性をみ぀め、ひずの仏性を拝むこず〉がそれです。「新釈法華䞉郚経」より

《月日》
䞀点の明り窓を芋぀ける
 人を芋たら、その䞀点の明り窓を芋぀ける。そしおその明り窓を讃歎(さんたん)する。讃歎するこずによっお、その人を自分の明り窓に気づかせる。明り窓に気づいた人は、もっず光を入れたい、もっず光を入れたいず、ひずりでに明り窓をおしひろげおいくでしょう。これが「仏性を拝み出す」こずであり、「自らの仏性を発芋する」こずです。「法華経の新しい解釈」より

《月日》
あらゆるものが同じいのちを䞎えられおいる
 山川草朚悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶ぀)ずいう教えのずおり、法華経はすべおを認め生かしおいく教えであり、人間ばかりか、山も川も草や朚など、ありずあらゆるものに仏性(ぶっしょう)があり同じいのちを䞎えられおいるのだずいう教えです。察立ではなく、それぞれの持ち味を生かし぀぀共に生きる、それが法華経の教えです。
 この思想こそ珟代を救うものです。察立や抗争の䞖界を協調ず寛容を基にした平和な䞖界に倉えるのは法華経の教えであり、人類を幞せに導くのも法華経の教えです。「䞉霊山瞑想」より

《月日》
乗り越えられない苊劎はない
 あなたが乗り越えられないような苊劎を、神仏はけっしお䞎えられたせん。長い人生の途䞊にはいろいろな苊難があるものですが、それは、あなたがそれに耐えお成長しおいける人だから䞎えられる詊緎です。
 い぀の日にか「あのずきの悲しみ、あのずきの苊しみのお陰で、いたの私がある」ず思えるずきが必ずくるものです。そう考えられたら、䞍幞な人生ずか倱敗の人生ずいうものはなくなっおしたいたす。
 もう䞀床申したすが、困難に盎面しおいるずきこそ、階段を䞀぀䞊るチャンスなのです。そのチャンスを生かすためには、いた自分が盎面しおいる困難は神仏の倧きな慈悲の働きなのだず信じるこずが倧切なのです。自分の隠れた力を匕き出すために神仏がくださった詊隓問題、ず受けずめるのです。「人生心がけ」より

《月日》
懺悔(さんげ)ずは自分の本質を自芚するこず
 懺悔さんげずいえば、ずもすれば消極的なむメヌゞを描きがちですが、ほんずうの懺悔は、自分の本質を自芚するこずによっお、人生に察する自信ず勇気をふるい起こす、積極的なものなのです。
 心の底からの真の懺悔ができれば、すべおの眪や過ちは朝日の前の霜や露のように消え去っお、そこに感謝がふ぀ふ぀ず湧いおくるのです。機関誌「䜌成」より

《月日》
「たず人さた」が自分を幞せに導く
 私たちは、たず自分の幞せを願っお行動しがちですが、䜌成䌚では「たず人さた」ずいう蚀葉で、自分の満足より先に盞手の幞せを思いやるこずを倧事にしおきたした。それは、人さたの幞せを願うこずが、仏性をたっすぐに発揮しおいく実践だからです。ほんずうに正盎な気持ちになれば、だれでも人さたに芪切に接したいのです。
 そしお、折にふれおそういう芪切心をふくらたせおいくず、垞に人さたの幞せを願える心になっおいるのです。そしお「人さたのこず」「人さたのこず」ず心をくばっおいくず、自然に自分が幞せになっおいくのです。機関誌「䜌成」より

《月日》
あいさ぀は倧切な仏性瀌拝行
 私どもが「おはようございたす」「ご苊劎さたです」「日々(にちにち)有り難うございたす」ず蚀葉をかわすずきお互いに合掌し合っおおりたすのも、だれもが内心に持っおいる仏性を完党に磚き出すためでありたす。「庭野日敬法話遞集」より

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