💎 庭野日敬開祖「一日一言」~毎日のことば~(5月)

キャッチ画像5月1日より、立正佼成会を創立した庭野日敬開祖の珠玉のおことばを「一日一言」と題して、毎日更新し、1つずつご紹介していきます。今月のテーマは「仏性礼拝(ぶっしょうらいはい)」です。

《5月31日》
総手どりは仏性開顕の呼びかけ
 本会の活動として、“総手どり”と言うことをよく申しますが、それは仏性の開顕をみんなでしていこうという呼びかけなのです。(「庭野日敬法話選集」より)

《5月30日》
教化(きょうけ)とは仏性を引きだすこと
 教化といえば、教えによって人間を変化させるという意味で、どちらかといえば、他動的なはたらきのように考えられます。しかし、その他動的なはたらきのぎりぎりの奥をさぐってみますと、結局はその人が本来もっている仏性を引きだしてあげるということに帰着します。
 いくら外から力を加えて人間を変えようとしても、その人の仏性が動きださないことには救われないのです。(「新釈法華三部経」)

《5月29日》
仏性を悟るのはなぜたいせつか
 仏教で、対人関係における最大の美徳としている寛容も、慈悲も、つまりは人の仏性を認めることによって湧いてくるものであることを知らねばなりません。
 したがって、世の中を明るくし、平和にするには、自他の仏性を認めることがほんとうの出発点であり、もっとも基本的な道であることを悟らねばならないのです。(「新釈法華三部経」より)

《5月28日》
仏性とはなにか
 仏性ということばは、二つの方向から見ることができます。
 第一は、〈仏の本性(ほんしょう)〉という方向から見た場合。
 この仏の本性というものは、(中略)無始無終で、不生不滅の〈真如(しんにょ)〉そのものです。この真如を信仰的にいうと、ありとあらゆるものを生かして下さっている大慈大悲の仏さま、つまり〈久遠本仏〉であります。ですから仏性とは〈久遠本仏〉そのものであるのです。
 第二は、〈仏になりうる可能性〉という方向から見た場合。
(中略)仏になりうる可能性というのは、ふつうのことばでいえば、〈至上の真理を悟った完全な人間になりうる可能性〉ということになります。
 お釈迦さまは、そういう可能性がすべての人間にあると断定されました。なぜ断定できるかといえば、もともと人間という存在が第一の意味の仏性そのものであるからです。
 ただ人間は、生物として発生以来何億年のあいだにつちかわれてきた無明(むみょう)と、その無明にもとづくもろもろの煩悩(ぼんのう)によって、そのほんらいの仏性をおおいかくしているのです。ですから、その無明から覚めさえすれば、ほんらいの仏性はかならず輝きだしてくるわけです。(「新釈法華三部経」より)

《5月27日》
仏性礼拝はすべてに先行すべきもの
〈経典(きょうでん)を読誦(どくじゅ)せず〉(常不軽菩薩品第二十)・・・
 梵文(ぼんぶん)の原典には、〈説教もせず、経典も読まず〉とあります。だからといって、読誦や説法が仏道修行にとって不要だとか、あるいは重要でないとか、そのような誤解をしてはなりません。
 これは、〈ひとの仏性を拝むことが、仏道修行の根本であり、すべてに先行するものでなければならぬ〉ということなのです。(「新釈法華三部経」より)

《5月26日》
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
《法華経》二十八品のなかで、人間の仏性というものが、はじめてハッキリした形でうちだされているのは《譬諭品(ひゆほん)第三》の〈今此(こ)の三界(さんがい)は 皆是(こ)れ我が有(う)なり 其(そ)の中の衆生(しゅじょう)は 悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子なり〉というお言葉です。
 また、《信解品(しんげほん)》の〈長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え〉も、その仏の子としての仏性を説いているわけです。貧乏で、卑屈で、人生に自信を失った人が、大長者である仏のかぎりない慈悲によって、しだいにみずからの尊厳さにめざめていく過程が、あの譬え話のなかにいきいきとえがきだされています。
 つまり、仏の心とひとりの衆生の心との一対一の通いあいです。信仰の究極は、あの譬えの結末のように、仏と自分がほんとうの親子である、一体であるという確信をもつところにあります。そうしてこそ、真の大安心が得られ、自由自在の身となることができるのです。(「新釈法華三部経」より)

《5月25日》
仏性こそ無価(むげ)の宝珠(ほうじゅ)
 無価の宝珠というのは、すべての人間がひとしくそなえている仏性のことです。われわれは、ひとりのこらずそれをもっているのです。けれども、なかなかそれを自覚できません。なぜ自覚できないかといえば、われわれが酔って眠りこけているからです。心が眠ったままでいるからです。
 われわれは、現象としてあらわれているこの肉体が自分の本質だとおもいこんでいます。心はその肉体に付属しているものとおもいこんでいます。そこで、ただもうその肉体と心を満足させるために、欲望を追って右往左往し、衣食に追われてあくせくしています。それが、仏性を自覚していないということです。酔って眠っているということの意味です。(「新釈法華三部経」より)

《5月24日》
家庭成仏も仏性礼拝から
 家庭成仏も一念三千(いちねんさんぜん)を上手に享受して、家族に対して、ほんとうの、仏性から出てくる真心の気持ちで語りかけていけば、家中の人が真心の気持ちで語りかけ、話し合いのできる家庭になっていくわけです。(「ほっしん」より)
*「一念三千」~人の日常心(一念)に宇宙存在のすべてのあり方(三千)が含まれるとする教え。天台宗の究極的真理とされる。(『広辞苑』より)

《5月23日》
大きな親心に目覚める
 仏さまはいつでも大慈大悲(だいじだいひ)をもって私たちをお護(まも)り下さっています。そして素晴らしい修行のできるような人には、都合のよいことばかりでなく、ある時には困難な試練を与えて下さいます。
 その困難を乗り越えることによって仏さまの大きな親心と、私たちがその仏さまの子であることに本当に目覚め、真の幸せの境地を得ることができるのです。(「ほっしん」より)

《5月22日》
仏の子である自信
 我れというものをまったく宇宙全体に溶けこませ、自分は久遠本仏(くおんほんぶつ)の分身である、子であるという意識に徹してしまえば、久遠本仏の慈悲がその人に満ち満ちるのですから、これぐらい力づよいことはありません。なにものをも恐れることもなく、なにものをもはばかることはありません。仏の子であるという自覚が、絶大なる自信をつけるというのは、こういうことなのであります。(「新釈法華三部経」より)

《5月21日》
先祖供養の大切さ
 自分が今日この世に存在し得ているのは先祖のおかげであることは言うまでもありません。これを一本の樹木にたとえるならば、先祖が根であり、私ども子孫は枝葉であり、幹は両親ということになりましょうか。
 枝葉をしげらせ、花や実をつけるためには、まず根に栄養を与えなければなりません。この順序をわきまえてこそ、自然の恵みをうけ、また、それが人間の道にかなうのです。(「庭野日敬法話選集」より)

《5月20日》
菩提心(ぼだいしん)を起こさせるように
 相手が誰かれということなく、本当に法に導こうと思うと、人を敬うきもちが大切です。人さまがみえたとき合掌で迎えるということは、その人を信じ、その人の本性に仏心(ほとけごころ)がある、仏性があると考え、その人格を最高に尊敬することです。
 特に法華経では常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)に端的に“但(ただ)礼拝(らいはい)を行ず”とあるように、見る人、見る人を礼拝するという行が、その人の菩提心を起こさせる因縁を生むことになるのです。(「ほっしん」より)

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《5月19日》
根本的な救いとは
 菩薩とは、人を救い世を救うことを念願とする人ですから、迷ったり苦しんだりしている衆生(しゅじょう)を、その場その場で救ってくださることにはまちがいありません。しかし、根本的な救い、真の意味の救いは、「本仏に生かされているのだ」ということを自覚すること以外には起こりえないのです。(「法華経の新しい解釈」より)

《5月18日》
真の済度(さいど)とは
 菩薩行(ぼさつぎょう)の根本は、人間を礼拝することである。人間を礼拝するとは、あらゆる人間の中にある仏性を認めることである。仏性を認めないでその人を救おうというのは、形式だけの空虚な行ないに過ぎない。その人の中に必ず実在する仏性を拝み出すところに、真の済度はあるのだ。(「法華経の新しい解釈」より)
*「済度」~仏が迷い苦しむ人々を救い、悟りの境地である彼岸へ導くこと。「済」は救う。「度」は渡す意。(『明鏡国語辞典』より)

《5月17日》
この世に生きる目的は
人間の魂は無限に(仏となるまで)向上していくべき本質をもっているのであって、この世に生きるのは、そこで魂の修行をするためなのです。(「庭野日敬法話選集」より)

《5月16日》
すべて仏さまのお手配(てはい)
 私たちは、神仏に祈願をするとき「一切の御手配(おんてはい)賜りますよう偏(ひとえ)に願い上げ奉(たてまつ)る」と唱えます。一切の御手配とは、よいことも悪いこともすべてみ心のままに、という意味です。どんなことも、すべて仏さまのお手配と受け取らせていただきます、とお誓いしているのです。
(中略)いま目の前に現われた現象は、自分にとってつごうの悪いことであっても、それは長い目で見ると神仏のお手配だったとわかるときがくるのです。(「寫瓶無遺」より)

《5月15日》
仏さまの本願(ほんがん)とは
「毎(つね)に自ら是(こ)の念(ねん)を作(な)す 何を以てか衆生(しゅじょう)をして 無上道(むじょうどう)に入り 速(すみや)かに仏身を成就することを得(え)せしめんと」。(妙法蓮華経如来寿量品第十六)
 仏さまが娑婆世界(しゃばせかい)に姿を現わされるのは、どうしたらみんなを仏の道に導き入れることができるか、どうしたら早く仏と同じ心境にさせることができるか ― その願いをかなえるためなのです。仏さまのご本願がここにあるのです。(「三霊山瞑想」より)

《5月14日》
人間の本質とは
 諸法実相(しょほうじっそう)を悟った立場から人間の本質をみますと、それはとりもなおさず仏性でありますから、すべての教えは、自分のなかの仏性に目ざめ、他のすべての人のなかに仏性を見いだし自覚させ、それを開発してゆくというただ一事に帰するわけです。(「新釈法華三部経」より)

《5月13日》
本当の信仰に徹すると
 本当の信仰に徹すれば、その人のもつ雰囲気がちがってきます。いかにも明るい、自信に満ちた、しかもすべてに積極的で献身的な気分をもつようになります。それが、顔つきにも、言葉つきにも、行ないのうえにも、ひとりでににじみ出てくるのです。(「庭野日敬法話選集」より)

《5月12日》
二人の自分
 自分にも尊い仏性(ぶっしょう)が具わっているのだと自覚することは、つまりは、二人の自分がいることを知ることともいえましょう。一人は煩悩(ぼんのう)のままに生きる自分です。もう一人は、仏性に目覚めた自分です。
 そして、後者こそ自分の主人公なのだと自覚することです。主体性をもってなにごとにも取り組むということは、この、後者の自分が主人公になって仕事に励むことをいうのです。(「寫瓶無遺」より)

《5月11日》
苦の原因とは
 この世の中は、刻々と変化しています。ところが、みんなその変化を認めたくないのです。都合のいい変化は、いい心地で得意になって変化とは感じない。
 ところが、自分にとって都合の悪い変化だと、ぜったいに受け入れまいとする。変化する世で、変化を拒(こば)んでいたら、思いどおりにならないのは当然です。これが苦の原因なのです。(「開祖随感」より)

《5月10日》
困難が自分を成長させてくれる
 私たちの人生には、さまざまなことが起こります。得意の日もあれば挫折の夜もあります。病気をすることもあるし、思わぬ災難にあうこともあります。しかし、自分がしっかり生きていれば、多少の困難にへこたれることはないのです。周囲の人から「おまえはだめだ」といわれることより、自分で「おれはもうだめだ」と思うことのほうが、向上や発展にとって大敵なのです。
 
苦難こそ、おのれのなかにひそんでいる能力をひきだしてくれるのだ、という心構えが大切です。どんな失意のときも、「この困難が自分を成長させてくれるのだ」と考え、そして「仏さまが見守ってくださっているのだ」と心を定めていれば、目先の悩みにひっかかってあれこれ思いわずらうことはないのです。(「経営者心得帳」より)決定11111《5月9日》
本仏(ほんぶつ)に生かされている自覚から
 救いというものは、われわれと、いついかなるときでも共にいてくださる久遠実成(くおんじつじょう)の本仏を、われわれが確固として自覚するところに生まれます。自分はその仏さまに生かされているのだということを、心の底から悟るところに、ほんとうの救いがあるのです。
 なぜならば、そうした確固たる自覚があってこそ、はじめて深い心の安らぎが得られるからです。と同時に、いうことなすことがひとりでに仏さまのみ心すなわち真理と一致してくるからです。(「新釈法華三部経」より)

《5月8日》
仏性の芽を見つける
 私たちの目は、相手を見るときは欠点ばかりを、自分を見るときはいいところばかりが見えるようにできているようなのですね。仏性を拝むとは、それとは逆に、相手の欠点は目に入れず、美点だけを一つでも見つけようとする見方といえましょう。
 仏性とは、完全無欠であることではなく、仏になる可能性を秘めているということです。その仏性の芽を見つけて大事に育て上げていくと、大きく成長した芽が殻を破って仏性全体が見事に輝き出してくるのです。(「開祖随感」より)

《5月7日》
仏教のエキスとは
 仏の教えの哲理を煮つめて煮つめたギリギリのエキスはなんでしょうか。〈一切衆生悉く仏性有り(いっさいしゅじょうことごとくぶっしょうあり)〉という真理がそれです。その真理を日常の生活に実践するのに、だれにもかんたんにできる行法(ぎょうぼう)とはどんなものでしょうか。〈自分の仏性をみつめ、ひとの仏性を拝むこと〉がそれです。(「新釈法華三部経」より)

《5月6日》
一点の明り窓を見つける
 人を見たら、その一点の明り窓を見つける。そしてその明り窓を讃歎(さんたん)する。讃歎することによって、その人を自分の明り窓に気づかせる。明り窓に気づいた人は、もっと光を入れたい、もっと光を入れたいと、ひとりでに明り窓をおしひろげていくでしょう。これが「仏性を拝み出す」ことであり、「自らの仏性を発見する」ことです。(「法華経の新しい解釈」より)

《5月5日》
あらゆるものが同じいのちを与えられている
 山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という教えのとおり、法華経はすべてを認め生かしていく教えであり、人間ばかりか、山も川も草や木など、ありとあらゆるものに仏性(ぶっしょう)があり同じいのちを与えられているのだという教えです。対立ではなく、それぞれの持ち味を生かしつつ共に生きる、それが法華経の教えです。
 この思想こそ現代を救うものです。対立や抗争の世界を協調と寛容を基にした平和な世界に変えるのは法華経の教えであり、人類を幸せに導くのも法華経の教えです。(「三霊山瞑想」より)

《5月4日》
乗り越えられない苦労はない
 あなたが乗り越えられないような苦労を、神仏はけっして与えられません。長い人生の途上にはいろいろな苦難があるものですが、それは、あなたがそれに耐えて成長していける人だから与えられる試練です。
 いつの日にか「あのときの悲しみ、あのときの苦しみのお陰で、いまの私がある」と思えるときが必ずくるものです。そう考えられたら、不幸な人生とか失敗の人生というものはなくなってしまいます。
 もう一度申しますが、困難に直面しているときこそ、階段を一つ上るチャンスなのです。そのチャンスを生かすためには、いま自分が直面している困難は神仏の大きな慈悲の働きなのだと信じることが大切なのです。自分の隠れた力を引き出すために神仏がくださった試験問題、と受けとめるのです。(「人生心がけ」より)

《5月3日》
懺悔(さんげ)とは自分の本質を自覚すること
 懺悔(さんげ)といえば、ともすれば消極的なイメージを描きがちですが、ほんとうの懺悔は、自分の本質を自覚することによって、人生に対する自信と勇気をふるい起こす、積極的なものなのです。
 心の底からの真の懺悔ができれば、すべての罪や過ちは朝日の前の霜や露のように消え去って、そこに感謝がふつふつと湧いてくるのです。(機関誌「佼成」より)

《5月2日》
「まず人さま」が自分を幸せに導く
 私たちは、まず自分の幸せを願って行動しがちですが、佼成会では「まず人さま」という言葉で、自分の満足より先に相手の幸せを思いやることを大事にしてきました。それは、人さまの幸せを願うことが、仏性をまっすぐに発揮していく実践だからです。ほんとうに正直な気持ちになれば、だれでも人さまに親切に接したいのです。
 そして、折にふれてそういう親切心をふくらませていくと、常に人さまの幸せを願える心になっているのです。そして「人さまのこと」「人さまのこと」と心をくばっていくと、自然に自分が幸せになっていくのです。(機関誌「佼成」より)

《5月1日》
あいさつは大切な仏性礼拝行
 私どもが「おはようございます」「ご苦労さまです」「日々(にちにち)有り難うございます」と言葉をかわすときお互いに合掌し合っておりますのも、だれもが内心に持っている仏性を完全に磨き出すためであります。(「庭野日敬法話選集」より)

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