「一食を捧げる運動」を宮城県民運動へ!!「すべての人に食料と水を」
- 2016/11/17
- 平和を創る
9月18日から20日まで、「世界宗教者平和のための祈りの集い」が、イタリア・アッシジで開催されました。その集いの中で、庭野日鑛会長が『すべての人に食料と水を』と題したスピーチを行いました。そのスピーチの中での「一食を捧げる運動」についての言葉を掲載いたします。
本会では、四十年以上前から、「一食を捧げる運動」を続けています。
これは、一日三回の食事の中で、月に何回か食事を抜いて、その食費分のお金を献金し、貧困の削減、難民支援、環境保全などに役立てようとするものです。これまでに信者から寄せられた浄財は、累計で百四十億円を超え、八百五十以上の団体や組織に寄託されています。
「一食を捧げる運動」は、いつでも、どこでも、だれでもが、いつまでもできる運動です。この「いつまでも」ということが肝心であります。継続することによって、相手を思いやる心を、忘れることなく持ち続けることができからです。もちろん「献金」も重要ですが、「一食を捧げる運動」を通して、神仏の心に近づかせて頂いていることに、大きな意味があるのではないかと思います。
人間は、誰もが「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」―つまり貪り、怒り、愚かさなどに代表される煩悩をそなえています。しかし同時に、慈悲の心、愛の心も宿しています。「一食を捧げる運動」によって、自らも空腹感を味わい、遠い国々でひもじい思いをしている人々に思いを馳せる時、苦しみ、悲しみを分かち合い、寄り添おうという気持ちが、自ずと湧いてきます。
「援助する側」「援助される側」という相対的な意識ではなく、皆が兄弟姉妹という自覚に立って、自分のできることをさせて頂く―それは、極めて当たり前のことです。
各地で困難な状況に直面している方々は、私たちに、世の中の現実を教えてくれる、いま為すべきことを示してくれる存在です。内面に埋もれている慈悲の心、愛の心にも目覚めさせてくれます。そのような隣人によって、私たちは育てて頂いているのです。
そして、仏教にある「自利利他円満」の言葉の如く、自も他も共に救われていくことが、人間の本当に生き方なのではないでしょうか。
「一食を捧げる運動」は、月に一度でも、一杯のコーヒー、一片のパンを抜くだけでもいい。自由で主体的な活動です。関心のある方は、ぜひ実践して頂きたいと思います。
(『佼成新聞』2016年11月13日号より抜粋)