【こころの彩時記25】💕 私の実践「認めて・ほめて・感謝する」
- 2020/11/7
- 自分を創る
私たち仙台教会では、今、近藤教会長を先頭に、会員一人ひとりが家族や身近な人に「認めて、ほめて、感謝する」実践をさせて頂いています。
そこで、私も家族や周りの人を認めて、ほめさせて頂こうと、日々、努力しています。が、実は失敗ばかり。先日も、
「さすが!!」
「素晴らしい!!」
「たいしたもんだ!!」
という言葉を、ことあるごとに連発していたところ、
「お父さん、何が“さすが”なの?」
「“素晴らしい”ってばかり言ってるけど、具体的には何のこと?」
と家族からつるし上げをくらい、言葉に窮してしまいました。
そこで、私が思いついたのが、だいぶ昔に買ったネガティブ(否定的)な言葉をポジティブ(肯定的)な言葉に変換する、ほめ言葉の“タネ本”です。
早速、その本を開いて勉強しました。例えば、
〇すぐ落ち込む人 → いつも物事を真剣に受けとめる人
〇いつも暗い人 → いつも落ち着いて冷静な人
〇いつも早合点している人 → とても行動力のある人
といた具合です。
そこで、その流れに乗って、家内に向かって、
「いつもテレビのドラマを見て泣いてるけど、感受性が強いんだね」
「バイトが忙しくても、何事も一所懸命、頑張り屋さんだね」
「今日の夕御飯は、愛情たっぷりで涙が溢れて泣けてくるよ」
と自分ではまさに素晴らしい“ほめ言葉”だと確信して、連発していたところ、
「なんか気持ち悪い。どうかしたの?」
「なんか裏でもあるんでしょう?」
「本当にそう思ってるの?嘘くさい」
と家内の反応。そして、
「そう思った理由は何?」
「何かほしいものでもあるの?」
「教会で言われてるから?」
と連続砲火を受け、あえなく撃沈してしまいました。
相手を“ほめる”とはどういうことなのか?私は真剣に悩みました。そんな時です。たまたま本会の機関誌『佼成』から「相手を認め、讃える」というタイトルの庭野日鑛会長の法話を見つけたのです。
その法話の中で庭野会長は、
人を評価し判断するうえで、その人の行動や言葉や性格は無視できないものです。しかし、そのことにとらわれると、もともと讃えるに値する仏性という大切な視点を忘れてしまいがちなのです。仏法を学ぶ私たちにとって、人を認め、讃えるとは、相手の「いのち」を讃歎することではないでしょうか。(中略)たとえば親が子を見るとき、上司が部下を評価するとき、あるいは友だちとふれあうときに、相手のすぐれたところを見る心がけとともに、私たちはお互いさま、本来、仏・菩薩の徳を本具(ほんぐ)する「いのち」であるということを忘れてはならないと思います。(『佼成』2017年7月号より)
と教えてくださっていたのです。
(そうか、私は自他ともにある仏性という大切な視点を忘れ、ただ“ほめる”という言葉だけに執らわれ、またテクニックとして“ほめ言葉”を使っていた。自他の本性である仏性を拝む心、そして相手と共感し、共に喜び、共に悲しむという慈悲心を忘れていた)
と気づかせて頂きました。
以前、日蓮宗のあるご僧侶さまから、
「修行には“往復”というとらえ方が大切ですよ」
と教えて頂いたことがあります。
「往復」の「往」は、この現実世界から真理の世界を学び、知ること。「復」はその上でまた現実の世界へと帰って来ること。その「往」と「復」があって初めて、現実世界での修行が真理の世界と繋がるのです。
という趣旨のものでした。
「認めて、ほめて、感謝する」
会長先生のご法話のお陰さまで、なんとか「往復」することができました。これからは「真理の世界」と離れることのないよう、しっかりと繋がって実践して参りたいと思います。