今月の『佼成』会長法話のテーマは、「愚痴はほどほどに」です。
「いっても仕方のないことをいって嘆く」ことが「愚痴をこぼす」ということですが、“愚痴は絶対こぼしてはならない”ではなく、“ほどほどに”と述べられていて、私はなんだか少しほっとしました。
先日、「夫がいつも家で愚痴をこぼすため、そばにいて嫌になる」と、愚痴をこぼしている女性がいました。愚痴を吐く夫が問題なのか、夫の愚痴が嫌だと愚痴をこぼす妻が問題なのか、どちらなのでしょうか?
“やるせない気持ちで吐く愚痴や弱音は、ときに必要なのかもしれません。それが、やがて「いっても仕方がないことにとらわれるのはやめよう」自ら気づき、考え、新たな気持ちで前を向く出発点になることもあるのです。だとすると、人さまの愚痴を聞かせていただく受け皿のような私たちであることも大切だと思うのです”(14頁3行)と書かれてあります。
相手の愚痴をあたたかい気持ちで聞いてあげることができたら、その人を“救っている”と受けとめてみてはどうでしょうか。
愚痴とは、目の前のことしか見えず、あとさきの分別ができないこと、智慧がないことだとも言います。逆に智慧があるとは、「この世界が縁起で動いている」と理解することだと教えられますが、それはどのような意味なのでしょうか?いろいろな受けとめ方があると思いますが、“この世界はすべておかげさま”と、悟ることが一つだと私は思います。
先日、会社を経営している会員の方が毎年利益の中からお布施をしていましたが、いつも“もったいないなあ”と感じていたそうです。苦労して得たお金を手放すことは辛かったそうです。
しかし、数年前に台風の影響で自宅が水害にあったとき、大勢の方が連日復旧作業に来てくださった。「自分の力」や「お金の力」ではどうにもならないと途方にくれていたとき、助けてくださる人たちがこの上もなく尊くありがたい存在に感じ、その姿を合掌するしかなかった。
そのとき、「人間がこの世に生まれてきたのは、お返しをさせてもらうためだ」と気づいたそうです。それ以来、お布施をさせていただくことが“もったいない”ではなく、“少しでもお返しができてありがたい”と感じるようになったとのことです。人生の目的は、何かを得ること以上にお返しするため。このような人生観がもてれば、愚痴は自然と出なくなるのだと思いますが、あなたはどう受けとめますか?
合 掌
2023年11月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則