今月の『佼成』(5月号)の会長法話は、「悠々として、心安らかに」がテーマです。
盗んでいないのに泥棒扱いされたにもかかわらず、何の釈明もせず、事態を冷静に受け入れた善太郎について、なぜそのような見事な対応ができたのか?
それは「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という善太郎さんの絶対的な「信」によるもの」また、「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧なのだ」という悠々とした安らかや気持ちがあればこそ」と、説かれています。もし、私が善太郎さんと同じ立場におかれたら、「何を証拠に私を疑うのか」と腹を立て、相手を恨んだに違いありません。皆さんだったら、どうでしょうか?
「すべてを仏さまにおまかせする心」「仏さまに対する絶対の信」「常に仏さまがご照覧」という心になれたら、どんな事態が生じても、心安らかに悠々と生きていけるのでしょう。ここで大事なポイントがあります。「すべてを仏さまにおまかせする心」になったら、必ずハッピーエンドになるから安心だということではありません。ハッピーエンドになるか、ならないか分からないけれども、それでも安心でいられる。それが本当の“安心”という意味だと思います。
ちょうど今、新型コロナウイルスが感染拡大している最中です。多くの人が不安を感じています。特に、高齢の人や医療や介護の現場で仕事をしている人は、より不安が大きいでしょう。ウイルスの恐怖より経済的被害の方が大きく、苦しんでいる人もいます。今後さらに深刻な状況が展開する可能性だってあります。それでも、すべて仏さまのはからいとおまかせ(心に本仏を勧請)し、今、自分が置かれている場で一所懸命に生きていけたら、本当の意味で心安らかに悠々としていられるのでしょう。
16ページの「法華経の教えによって、感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩踏みだすことです。ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し、人びとと心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難さに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです。」というお言葉は、すごく大事だと思います。
「いま命あることの有り難さに目ざめる」とは、「仏性を自覚する」と同じ意味だと思います。言い換えれば、自他の“いのち”の本質である仏性に気づき、大いなる“いのち”に生かされていることを実感し、そこから湧き上がってくる感謝と感動に満たされた生き方です。それが法華経の一番大切な教えだと思います。
私たちが日々行っている布教活動は、決して連絡のためではありませんし、会員を増やすことでもありません。また、相手を指導し、相手を変えることでもありません。
新型コロナウイルスの影響で人と人との直接のふれあい、つながりを自粛せざるえない今だからこそ、電話やメール、ラインといったSNSを通して、できる限りお互いが仏性を自覚する(いま命あることの有り難さに目ざめる)ご縁づくりをしていくことが大切ではないでしょうか。
合 掌
2020年5月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則
*『佼成』(5月号)の会長法話は、本会本部のホームページよりご覧いただけます。下記のWebアドレスをコピー、ペーストの上、お読みください。
立正佼成会ホームページ「今月の会長法話」
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