今月の会長法話は「陀羅尼品(だらにほん)」に因んだもので、テーマは「心の隙間を埋める」。
「陀羅尼品」は、法華経のこれまでの説法に感激した人びとが、「誓ってこの教えを受持する人たちを守護いたします」と、強いことばで宣言し、その守護のための神呪(じんしゅ)を説いた章です。神呪とは神秘的な言葉で、これを唱えることで幸運を招いたり、災いを防いだりすることができると考えられているものです。
会長先生のご法話の中で、印象深いのは次の言葉です。
「三毒」といわれる煩悩は、人間ならだれにもあるもので、もちろん釈尊にもあったはずです。ただ、私たちと釈尊の違いは、欲望や怒りを制御できるかどうか、という点です。私たちは欲や怒りをうまくコントロールできないがため、思わず軽はずみな行動や悪いことをして、よけいな苦しみを背負いこむのです。(13頁2行)
どれほど強い意志をもった人も、鬼や魔にたとえられる貪瞋痴の誘惑にはなかなかか勝てません。しかし、心に隙が生じそうなときに自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば、魔が動き出す前に隙間を埋めて、心を切り替えることができます。(16頁2行)
煩悩はだれにもある。お釈迦さまにもある。それをどれだけコントロールできるかが精進の成果だと思います。煩悩は簡単になくなるものではなく、私たちの精進はいつまでも謙虚に続けていく必要があるのでしょう。
また、魔が動き出す前に心を切り替えることが重要なのだと思います。魔が動いてしまった後では手遅れです。では、どうしたら事前に切り替えることができるか?
会長先生は、ついカッと頭に血がのぼりそうになったときに、心のなかで『おんにこにこ はらたつまいぞや そわか』と唱える。すると感情の波が静まり、後悔するような言動を慎むことができると言われています。その言葉を自分の「陀羅尼」とされ、心の隙間を埋める助けにされているのでしょう。
本会会員では、「お題目を唱える」、「ご供養すること」で心を切り替えている人が多いようですが、皆さんは、自分の「陀羅尼」を持っていますか?私がよくお話している「認めて・ほめて・感謝する」も「陀羅尼」の一つといえましょう。
私は、『未(いま)だ木(もっ)鶏(けい)たり得(え)ず』という言葉を大事にしています。この言葉は、中国の古典「荘子」に収められている故事に由来し、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏の姿をさしています。
故事では、闘鶏を育てる名人にある国の王が自分の鶏を預け、最強の闘鶏に育てるよう命じます。10日ほど経過した時点で、王が名人に仕上がり具合を尋ねました。すると名人は「まだ空威張りして闘争心があるからいけません」と答えた。
さらに10日ほど経過して、再度王が尋ねると「まだいけません。他の鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます」と答えた。
さらに10日ほど経過したが、「目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません」と答えた。
さらに10日ほど経過した時点で、「もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても全く相手にしません。まるで木鶏のように動じることがありません。その徳の前にかなう鶏はいないでしょう」と答えた。
これを自分にあてはめ、「空威張りしていないか」「人と張り合うような我がないか」「相手を見下していないか」と自戒しています。縁にふりまわされて、自分自身を見失わないためです。これは、「どのような状態に置かれても、またどのような人と触れ合っても、常に仏さまのはからいと慈悲をしっかり感受する信仰者になる」(心に本仏を勧請する)という開祖さまの言葉にも通じていると思います。
最後に、私たちが、法華経の教えをしっかり受持し、その教えを本仏の願いの如くに行じていくならば、どんなに未熟であっても、多くの菩薩や神々が守護してくださるというのです。そのことを信じ、自信をもって行じていけばいいのです。「陀羅尼品」は、その励ましを下さっているように感じます。
合 掌
2021年8月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則