今月は、節分を迎えます。冬から春へと季節が移り変わります。2月3日は、皆さまのお宅でも「豆まき」でしょうか。昨今は、その年の福徳を司る歳神様に方(恵方)に向かって、海苔巻きを黙って食するという新しい習慣が人気のようです。節分の迎え方の変化をしております。
さて、今月『佼成』の会長法話は、『「恥じること」は、善く生きること』と、ご法話を頂きました。法華経の中の「慚愧」(ざんぎ 忄りっしんべんに鬼)について教え頂きました。この字句の意味は、いずれも「恥じること」を意味します。親鸞上人の「無慚愧(むざんぎ)はなづけて人(にん)とせず」といわれます。恥じる心がないのは、本能のままに生きる動物とお暗示でけっして人はいえない、恥じる心があればこそ、人が人として敬意や節度をもって生きることができ、人間関係も社会も成り立つということと、教えて頂きました。そして「恥じること」は人間の基本条件であるということです。心に強く響いて参りました。
最近では、「恥」は死語に近い言葉であり、暗い感じがした次第です。しかし、「恥を知る」とは、自己を省みること、自身に問うことであると思い返しました。信行方針のお言葉が思い起こされました。敬の心が発達してくると、必ず相対的に自分の低い現実を顧みてそれを恥じる心が起きて来る。人間が進歩向上する一番大切なことは敬う心を発達させることであり、恥を知ることであると。
生物は、絶えず進化しようとより高い自由を得ようとして進むべく宿命をもっていると言われています。仏道における厳しい修行も精進ですが、日常生活のなかで、自分本位の欲(貪)や怒り(瞋)や嫉妬(痴)に心を惑わされる一時、「恥じること」に心をとどめて「善く生きること」に導いてくださる、家族をはじめとする身近なにいるサンガの皆さんお一人おひとりの心に耳をかたむけて心の現在地を見て進んでいきたいものですね。
釈尊曰く「善き友は仏道のすべて」と。会長先生は「恥じるこころは仏性と同じでだれにもあるもので、恥を知る限り、人はいつまでも成長しつづけられるのです。」とお言葉を続けてくださいました。
さぁ、一歩前に踏み出してみましょう。春の足音を聞きながら。今月もよろしくお願いいたします。
合 掌
令和六年二月一日
立正佼成会仙台教会
教会長 岩間由記子