“拝んで、拝んで、拝み切っていく!” 教会長 近藤雅則(平成30年10月)
- 2018/10/1
- 心を創る
『佼成』10月号の会長法話は、「自他ともに心楽しい精進を」がテーマ。
「八正道(はっしょうどう)」の中の「正精進(しょうしょうじん)」について教えられています。「正精進」とは、一般的には、悪をなさず、常に正しい行いをして、怠ったり、わき道へそれたりしないことですが、庭野会長は、「まじり気のない自分本来の力を、まっすぐに発揮していこう」、また「心を真理にそわせていく工夫をこらすこと」と示されています。
さらに、「人の喜ぶことをしよう」「人に親しまれる自分になろう」「自分に恥じない行動をしよう」「人にはやさしく親切にしよう」「絶対に怒らない自分になろう」と、正精進のあり方を具体的に示されています。
私たちが信仰するということは、こうした生き方を身につけることだと思います。ですから、身近な家族や友人から、「信仰して、このような人間に少しでも近づいたね!」と言われるようになっているかどうか、お互いさまに振り返ってみることが大切でしょう!
立正佼成会の所依の経典である法華経の教えを生活に活かす上でもっとも大切な精進は、お互いの仏性を自覚し、それを開発し、拝みあっていくことです。それが、「まじり気のない自分本来の力を、まっすぐに発揮する」ことにもつながると思います。
庭野開祖は、「相手の仏性を拝まずにその人を救おうというのは、形だけのむなしい行いにしか過ぎない。その人の中に必ずある仏性を拝むところに真の救いがあるのだ」と喝破されていますが、相手の仏性を拝んで、拝んで、拝み切っていくことに徹することが、精進の中でも最高の精進だと思います。
そうなれたときに、どんな相手に対しても、どんな状況にあっても、それらに左右されず、無条件で受けとめることができ、そこから大きな学びや成長が得られるのでしょう。そして、相手や状況は、気がつかないうちに変化してしまっているのでしょう。
何か自分の力で、無理に相手を変えようとか、気づかせようとか、救おうとかしなくても大丈夫なのです。相手を認め、活かし、また讃えていくことの繰り返しの中から仏性(自分本来の価値)の自覚が深まってくるのです。
仏教の教えは、相手をこちらの思いとおりに変えようとすることではありません。自分自身がどれだけ仏の願いとおりに生きるかどうかなのです。自他の仏性を自覚し、拝み切っていくこと、それが仏の願いです。
合 掌
平成30年10月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則