「いのち」の尊さを伝えたい!!(第1回)熊谷 融(日本画家)
- 2018/3/1
- 明日を創る
このたび、宮城県仙台市に在住の日本画家 熊谷融(くまがいとおる)先生にご登場いただき、熊谷先生のご体験ならびに絵に込められた思い、願いについて語って頂きました。今月から3ヵ月(全3回)にわたって、ご紹介いたします。
◇東日本大震災に遭遇して
愛知県名古屋市で人物画を描いていた私は、1987年、長男の誕生を契機に故郷の宮城県岩沼市に帰りました。それ以降は、宮城県の海、山、森、植物、そういった自然が持つ大いなるいのちに心うたれ、日本画として描いてきました。故郷・宮城の自然は、私自身はもとよりすべての日本人にとっての原風景として眼に映りました。
宮城県に戻って24年目がたった2011年3月11日、あの「東日本大震災」が発生しました。お陰さまで、私の家は小さな被害で済みましたが、震災後、多くの人々の死、遺された方々の深い悲しみ、そして跡形もなく失われた街、無残な爪痕を残す海岸、そういったものを目の当たりにした時、私は絵筆を持つことができなくなってしまいました。
◇「琳派」の道を継承していきたい
大震災が起きた、ちょうどその年、私は妻・理慧古の故郷・広島にある尾道の春景を「尾道礼讃(櫻花)」というタイトルで描き、「第14回 絵のまち尾道四季展」に応募しました。
「尾道礼讃(櫻花)」は、私の画風にとって大きな転換点となりました。それは、いつも使っている天然絵具と金箔の古典的な技法にグラフィックデザイン的な要素を取り入れました。
「天然岩絵具」とは、天然の岩群青、岩緑青、辰砂、孔雀石、藍銅鉱、ラピスラズリなど、さまざまな鉱石、半貴石を砕いて作った絵具で、伝統的な日本画である「大和絵」(注1)で使う顔料です。
なぜそのようなことをしたかというと、「大和絵」の伝統的な技法を基盤とした「琳派」と言われる日本画を描きたいと思ったからです。
「琳派」とは江戸時代における絵画を主とする工芸,書などの装飾芸術の流派であり、特に家伝によらずに受け継がれた画法と、その画法によって絵を描いた一連の絵師を称して「琳派」と呼んでいます。江戸初期の俵屋宗達、本阿弥光悦を祖として、江戸中期に尾形光琳(注2)が大成し、酒井抱一などに受け継がれていきました。
私はその「琳派」、とりわけ大和絵をさらに革新、大胆華麗な装飾画風として大成した尾形光琳に少しでも近づきたいと思い、「天然岩絵具」の中に金箔をたたき込んで、箔を絵具として扱い、作品にしたのが「尾道礼讃(櫻花)」です。
この琳派の画風を追求した「尾道礼讃(櫻花)」は、「第14回 絵のまち尾道四季展」で金賞(準グランプリ)を獲得し、審査員の諸先生方から《新しい日本画》と称して頂きました。
私は自分が目指す画風が世に認められ、「よし、いよいよこれからだ」と意を強くした矢先、尾道市立美術館での入賞・秀作展覧会の会期中(2月26日~3月13日)に「東日本大震災」が発生したのです。
(注1)大和絵
古くは倭絵と記。唐絵(からえ)の対。月次(つきなみ)絵や名所絵など日本の事象風物を題材にした絵画で,9世紀後半からあらわれ,平安時代の貴族文化のなかで発展。唐絵が漢詩文の教養に基づき公的な性格をもっていたのに対し,貴族の私生活に密着し邸宅の障子や屏風(びょうぶ)に描かれ,また物語のさし絵や絵巻の形で発展した。(「百科事典マイペディア」より引用)
(注2)尾形光琳(1658~1716)
江戸中期の画家。乾山の兄。京都の人。光悦・宗達に私淑し、大和絵をさらに革新、大胆華麗な装飾画風を大成し世に琳派と称される。工芸にもすぐれ、光琳模様・光琳蒔絵まきえを生んだ。代表作「燕子花かきつばた図屛風」「紅白梅図屛風」。(「大辞林」より引用)
《熊谷先生、作品紹介》
(第2回に続く。4月1日更新)
【プロフィール】
熊谷 融(くまがいとおる)
1958年 宮城県岩沼市に生れる
1981年 アトリエクマガイ藝術学院 開校
1984年 「第39回 院展」初入選
1986年 愛知県立芸術大学大学院日本画研修科修了
2011年 第14回 絵のまち尾道四季展 金賞(準グランプリ)
《現 在》
日本美術院院友、宮城県芸術協会会員、アトリエクマガイ藝術学院塾長
愛知県立芸術大学時代、片岡球子画伯(1905-2008 昭和-平成時代の日本画家。芸術院会員。平成元年、文化勲章受章)に師事し、同窓の理慧古夫人も、現在、日本画家として活躍している。