今月号「佼成」の会長法話は、「日常を当たり前に生きる-精進①」がテーマです。精進と聞くと、何か特別な厳しい修行を行うイメージがありましたが、それとはまったく異なる内容で、正直驚きました。
「精進とは、がむしゃらに打ちこむ修行というより、むしろ日常生活のなかで人を思いやり、まわりの人に安らぎを与える言葉や行動を心がけること、つまり信仰者として、当たり前の毎日を送ることにほかなりません。」(11頁終2行)とあります。
以前の佼成会は、家庭や仕事を犠牲にして修行に打ち込む時代がありました。そうした修行をされた先輩幹部のおかげ様で佼成会の土台が築かれたわけですから、これは大変ありがたいことです。しかし、これからの修行のあり方を考えた場合は、家庭や仕事を捨てて修行するのではなく、むしろ家庭、職場、地域を道場ととらえ、そこで日常的に教えを実践することが大切になってくるのだと思います。そうしてこそ、教えが深く身につき、周囲の人に教えのすばらしさを実感していただけるわけですから。
これは一見簡単そうですが、よほど自分がしっかりしていないと、ついつい我儘になり、マイペースな修行になってしまいがちです。やはり、道場に集まってサンガと一緒に修行することも大切なのです。
仙台教会の皆さんが実践している「認めて ほめて 感謝する」は、人を思いやり、まわりの人に安らぎを与える言葉や行動にほかなりません。このことを日常的に家庭や職場で実践することができたら、間違いなく立派な精進であり、信仰者として合格点を頂けると思います。
精進について、もう一つ大事なことは“お役”です。“お役”を重くて負担だと感じる方も少なくないと思います。しかし、“お役”は教会や支部のためにするのではありません。あるいは、義務的にしなければならないというものでもありません。
“お役”は、自分自身が人を思いやり、まわりの人に安らぎを与える言葉や行動を心がける、つまり信仰者としての当たり前の毎日を送れるようになるためのものです。
能力や経験が十分あるから“お役”をいただくのではありません。お役を通して精進の道を歩み、“お役”にふさわしい人間に育てられているのです。事実、お役につけば、どんなに経験の浅い人でも、あっという間に素晴らしい人に成長しているように感じます。
最後に、要注意です。「人の為」と書いて“偽り”となります。確かに、私たちも「人の為」「人の為」と言いながら、心の中では「どこまでやればいいの」とか「いつまですればいいの」と、次第につらく感じることがあります。それは“偽り”だそうです。
本当に喜びを感じる人というのは、人に何かをしてあげることで、結局は自分がその喜びや幸せを頂くという方程式に気づいている人です。人のために何かをやってあげて、「ありがとう」と感謝されたときに「あー私は幸せだ!」という幸福感を味わうことができる。これこそ究極の幸福感だと思います。こうした究極の幸福感を味わいたくてお役を務めることができたら最高の精進だと思います。
合 掌
2022年7月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則