「導いた相手の中に自分の仏性を見る」教会長 近藤雅則(平成29年9月)
- 2017/9/1
- 心を創る
『佼成』9月号の会長法話は、「人に「伝える」ということ」というテーマでした。この中で、印象深いのは次の言葉です。
☆教えよう、伝えようという気持ちよりも、相手の声にひたすら耳を傾け、学ぼうとする姿勢のなかから、相手によく理解してもらえる言葉や心くばり、すなわち自他をよりよく生かす智慧が湧いてくるのだと思います。
☆感謝ということは、人間だけができることでしょう。その自覚に立って、ありがたいことをたくさん人さまにお伝えしていきたいと思うのです。
人に伝えたいことがなかなか伝わらず、イライラした経験のある人は多いと思いますが、皆さんはいかがですか?人にものごとを伝えるためには、「伝え方」が大切ですね。テレビの通信販売やコマーシャルでも、その人が宣伝すると爆発的に物が売れるという有名な人がいますが、その人は「伝え方」が抜群なのだと思います。また、「伝える人」も重要な要素です。「あの人が言うのであれば・・・間違いない」と、信頼されることが伝える力になるからです。
“教え”を伝えることは、とても尊く偉大な行為です。それは自分も他人も幸福に導くものであるばかりでなく、社会や世界を平和に導くものですから、これ以上尊いものはないわけです。しかし、どれほどの人が自信をもって、人に“教え”を伝えることができているでしょうか。自分は伝え方が下手だとか、人に伝えられるほど“教え”を深く理解していないと思うからかもしれません。しかし、人に伝えることによってこそ、自分自身の理解が深まるのです。
『法華経』の「随喜功徳品第18」には、伝え方の極意が書かれています。それは、「自分が聞いた通り」のことを「その人の力に応じて」とあります。要は、感動したこと、ありがたいと感じたことを、自分の言葉で精一杯伝えればよいのです。
私たち人間の“いのち”の本質は、仏さまの“いのち”と同じ尊い“仏性”だと教えられていますが、その“仏性”は肉眼で見ることはできません。そのため、自分の“仏性”を自覚できない人もたくさんいると思います。しかし、庭野日敬開祖さまは、自分が導いた相手の姿の中に、自分の“仏性”を見ることができると断言されています。
導くとは、教えを人に伝えることです。それは単に、本会への入会を勧めることでなく、その人が仏道を歩めるようにやさしく声をかけ、いっしょに精進することです。自分の“仏性”がキラキラと輝いているのか、それとも汚れて曇っているのかどうか、導きの相手の姿の中に見ることができる。言わば、導きの相手は、自分の“仏性”を映し出してくれる鏡なのです。この鏡を一つでも多く持つことが大切です。
合 掌
平成29年9月1日
立正佼成会仙台教会
教会長 近藤雅則