【特別寄稿1】現代の若者に伝え継ぎたい日本の心 千葉博男(竹駒神社宮司)
- 2016/7/25
- 明日を創る
日本国の発生以来、神道は日本人の心の精神的な拠り所として 、私たちの精神文化を形成してきました。しかし、戦後、欧米文化が日本の文化を席捲し、先祖代々日本人が培ってきた良き精神文化が、今、失われつつある現状も生じてきています。
そこで、今回は宮城県岩沼市に鎮座し、「日本三稲荷」ともいわれ崇拝されている竹駒神社の宮司 千葉博男師(宮城県神社庁顧問)から、現代の若い方々へ伝え継いでいきたい日本の心についてお話を頂戴しました。
現代の若者に伝え継ぎたい日本の心
家の中心としての神棚をお祀りする
私が、今、最も危惧しておりますのは、親から子へ、子から孫へと伝えていくべき「宗教心」というものが、非常に薄らいできていることです。
私ども「神道」の世界では、氏子さんにまず神棚をお祀りするようにお話をしてきました。ところが、現在では神棚を祀っていないご家庭が非常に増えてきています。少し前の我が国では、たいがいのご家庭で、家の中心に神棚をお祀りし、朝な夕なに神さまに手を合わせて参りました。
ところが、ご仏壇も含めて神棚をお祀りしていないご家庭が増えているということは、人間として最も大切な心の一つである「宗教心」というものを、日常の中で育まれる機会が少なくなっているということではないでしょうか。
この現代社会を見渡してみた時、私はこのことが非常に心配に思えてなりません。私は東京の明治神宮で永くお仕えし、また東京杉並区にあります大宮八幡宮でも宮司を務めさせて頂きました。東京は都市化が進み神棚がないご家庭がたくさんありましたが、竹駒神社がございます宮城県にもおいても、宮城県全体で96万世帯のうち、神棚をお祀りしているご家庭は約23万世帯という状況です。
そこで、私ども竹駒神社でも神職の者が手分けをして、地域の氏子のお宅を訪問し、天照大御神さま、そして氏神さまのお札をお祀りしましょうとお声かけをさせて頂いているわけですが、たいがいは「家には神棚がないので結構です」と断られてしまうのが現状です。
そこで、最近ではタンスの上や書棚などに場所をとらずにお祀りできるよう、小さな神棚立てを無料でお分けして、お札をお祀りして頂くようお話をさせて頂いております。
これも、家の中に神さまを迎え、お祀りし、そして手を合わせていくということを、現代の若い人たちに生活の中で自ら実践して頂きたいという願いがあるわけです。また、親が神さまを敬う姿を子供たちに見せ、またその親の姿をみた子供たちが「ああ、神さまっていらっしゃるんだな」、「神さまは尊いんだな」という宗教心が芽生え、見よう見まねでも子供の頃から神さまに手を合わせていく。
このことが、まず私たち日本人がいついかなる時代においても、忘れてはいけない大切な信仰であり、その実践が平穏な生活を築くのではないでしょうか。
食べ物に宿る“いのち”に感謝する心
では、宗教心とは具体的にはどのような心なのでしょうか?それは、私は神仏の存在を知り、神仏を大事にする心であると思っています。
ご存知のように神道は、太古の昔から日本民族が培ってきた精神文化であります。“日本人が日本の生活の中で育んできた心”とも申せましょう。山川草木のすべてに神さまが宿り、石にも、月にも、星にも、空気にも、そして私たちが毎日頂くお米や野菜、魚など、すべてにそれぞれ神さまがいらっしゃると信じて参りました。
そのこと表す次の詞(ことば)が現在に伝えられています。
天地の中に満ちたる草木まで 神のすがたと見つつ怖れよ
(卜部兼邦『兼邦百首歌抄』より)
「この世界の中のものはすべて神さまのお姿の現われと思い、たとえ一本の草木であっても畏れ、敬いなさい」
という意味です。
ですから、空気にしても、水にしても、天地自然のそういったものがなければ、私たちは一日、一秒たりとも生きてはいけません。私たちはそういった天地自然、すべてのものの恩恵を頂いて生かされているわけです。
また、すべてのものに神さまが宿っているということについて、科学的な眼で見れば否定をされる、あるいは信じられないという方も多々いらっしゃることでしょう。しかし、実際に私たち日本人は、そのことをごくごく身近な生活を通して肌で感じとってきたのです。
例えば、神道の世界では食べ物にたいし、食前と食後にそれぞれ感謝の真心を表わす詞(ことば)があります。二つとも江戸時代前期の国学者であります本居宣長作の『玉鉾百首』(たまぼこひゃくしゅ)という和歌集に出て参ります。
たなつもの ももの木草を 天照らす 日の大神の恵み得てこそ
(たなつもの もものきぐさも あまてらす ひのおおかみの めぐみえてこそ)
朝夕に もの食ふごとに 豊受の 神の恵みを 思へ世の人
(あさゆうに ものくうごとに とようけの かみのめぐみを おもえよのひと)
最初の和歌は食前に感謝をする意味での、いわゆる「いただきます」の歌です。「たなつもの(穀物)や、ももの木草(百々の木草)など、私たちが口にするすべての物は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまのお恵みのお陰である」という意味になりましょう。
また、後の和歌は食後に感謝する意味での「ごちそうさま」の歌です。
「朝・昼・晩など食事を頂くたびに、食物の神さまである豊受大神(とようけのおおかみ)の恵みであるということを忘れてはいけない」
という意味になるかと思います。
神官である私たちは、まず食事の前後に、この歌を唱和し、神さまに感謝の念を捧げてからご飯をいただき、そして終えるという伝統を守り続けてきております。そして、竹駒神社で支援しております、ボーイスカウト、ガールスカウトの青少年の皆さんにも、食事の前後に神さまに奏上して頂いているのです。
やはり、私たち人間も大自然の中の一員です。自然の恩恵を受けて生きている。いや生かされているといえましょう。その自然の恵み、恩恵に感謝をしていく心は、昔も今も不変のものであり、未来永劫に伝えていかなければならない日本の美しい心=精神文化であると思います。
自然を畏れ、敬う
5年前の2011年3月11日、あの「東日本大震災」が起きました。また、今年4月には熊本で大きな地震がありました。それぞれの震災によってお亡くなりになられた方々のご冥福を心からお祈り致しますと共に、一日も早い復興を心から願ってやみません。
その中で、私はこのような大震災から学ぶべきものが多々あると思っています。その中の一つは、大自然に対する「畏敬」の念であります。神社には「杜」(もり)といって、必ず木々が植えられています。木々はあらゆる面で、私たちを守ってくれています。例えば、二酸化炭素を吸って酸素を供給してくれたりといったことは、皆さんもよくご存知かと思います。また、昔から「防風林」、「防砂林」といったことでも、私たちを守ってきてくれました。そのような意味では、海岸線沿いに「防災林」として波を防いでくれる林を、国や自治体などでしっかりと整備しておいてくれたら、東日本大震災のようなこんなにも大きな被害にはならなかっただろうと悔やまれてなりません。
自然のはたらきに、けっして、人間は驕り高ぶってはいけないと思います。
かつて平安時代前期の貞観11年(869年)5月26日に、陸奥国東方沖、いわゆる三陸沖でマグニチュード8以上であったとされる巨大地震が発生し、当時の多くの尊い命が失われました。これが、「貞観地震」(じょうがんじしん)と呼ばれているものです。この「貞観地震」について、『日本三代実録』という書物に当時の宮城県の多賀城(現在の多賀城市)における津波の様子などが詳細に記載され、記録として遺されています。
氏子さんの一人で、ある原子力発電所に勤めていらっしゃる方が、
「自分の勤めている原子力発電所は、『貞観地震』の教訓を生かして造られていたので、何とか震災の被害、特に津波の被害を最小限に止めることができた」
と、おっしゃっていましたが、私自身、非常に感銘深く聴かせて頂きました。
現代の科学の力だけを過信するのではなく、祖先が遺してきてくれた記録や経験、そして実際に起きてきた自然の猛威や脅威といったことを、私たちは謙虚に学び、これからの生活に活かしていくことが大切ではないでしょうか。現代では、人類による自然の破壊が進み、温暖化が世界的な環境問題になっています。
日本では、例えば昔から山の樵(きこり)や猟師をされているマタギは山の神を敬い、掟を守り、森林にしても、動物にしても、けっして無駄な殺生はしてきませんでした。漁業を生業とする方々も、翌年や将来の漁のことを考え節度ある漁をしてきました。今はどうでしょうか。
やはり、昔は自然に対して「畏敬」、つまり畏れ、敬う気持ちがそこに厳然としてあったわけです。
明治天皇御製の和歌に、次のお歌がございます。
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり
「目に見ることのできない神に向かい、少しも恥ずかしくない清らかな正しい心は誠の心である。それはわれわれにとって最も貴いものである」
という意味になりましょう。
目には見えませんが、神は存在しています。山や川、海、草木、私たち、すべての生きとし生けるものの世界に、神さまはいらっしゃるのです。
ですから、神さまはいつも私たちをしっかりと見ていらっしゃいます。「神も仏もあるものか」とか、「誰も見ていないからいいだろう」ということではなく、目には見えない神さまにたいして、畏れ、敬う心を持って嘘偽りのない生活を送らせて頂く。神さまはいつも見ていらっしゃるからこそ、悪いことはしない。
このことも、ぜひ今の若い人たちにお伝えしていきたい、大切な心であると思っています。
“敬神崇祖”-結びにかえて-
ここまで、「神棚をお祀りし、朝夕にお参りをしましょう」、「天地自然すべてのものに神さまが宿っている。それがゆえに私たちは神さまによって生かされている。故に神さまを崇敬し、同時に自然に対して畏敬の念をもちましょう」ということを述べて参りました。
最後に、「祖霊を敬う」ということをお話して、私の話の結びとしたいと思います。
神道の世界では、親を大事にすることは、親を通してご先祖さま、神さまを敬うことであるとされています。「敬神崇祖」(けいしんすうそ)という言葉があります。神を敬い、親や先祖を崇めるという、この二つが相まって生かされ、生きていくことが、人間としての歩むべき姿であるということです。
親があり、そのまた親があり、そのまた親があってというように、先祖代々、受け継がれてきた“いのち”を頂いて、現在の私がいるわけです。たくさんの親の恩があって、自分がいま、ここにいる。
このことも、これからの時代を担う若い人たちに、ぜひお伝えさせて頂きたい大切な日本の心として、私のお話の結びといたします。
有り難うございました。