被災した方々に心をよせて
- 2016/5/20
- 地域で創る
被災した方々に心をよせて
竹花喜久(たけはなきく)
東京で生まれ育った竹花喜久さん
2011年3月11日に起きた「東日本大震災」の後、宮城県仙台市に一人転居し、現在、地域のボランティアの人たちと共に、復興支援の奉仕に取り組んでいます。
その竹花さんが復興支援に心が動いた気持ちと、復興に捧げる心についてご紹介します。
2011年3月11日この日、東京新宿の高層ビル17階で仕事をしていた私は、今まで感じた地震と違い、大きく高いビルが左右に何度も揺れ、今にもビルが倒れ、崩れるのではないかと恐怖を感じました。
揺れがおさまり安堵したと同時に、社内に流れる東日本で起きた災害の大きさに(現実の出来事?)、と思う大きな衝撃を受けました。
あの日から毎日、テレビに映る光景を見るたびに、周りの多くの友人と同様に、(今、私に何ができるの。私は何をすればよいの)と悶々と過ごす日々が続きました。
そんなある日、国の復興庁を通して、石巻市や女川町といった被災地の自治体が復興のために職員を募集しているポスターを見たときです。
「被災者の皆さんのお役にたちたい!!」
「この仕事は私のためにある。今でしょう!!」
という思いが、私の心の中に強く湧き起こってきました。
この思いを友人、知人たちに話したところ、皆、口を揃えて、
「なんで今まで続けてきた仕事を辞め、わざわざ東京から東北に行かなくてはいけないの」
との声。
尊敬する立正佼成会の友人に思いを告げると、
「僕はいいことだと思うよ。一度きりの人生だもの。本当に自分がしたいことをする。しかも、それが人のため、世の中のためになるのだったら、最高の人生じゃないか。竹花さんが今まで抱いてきた夢を実現させるチャンスだよ!!」
そう言って、私の背中を力強く押してくださいました。
また、事あるごとに相談にのって頂いていた先輩から、
「社会で働いて得た知識や経験をもとに、これからは地域で自分を活かす役目があなたにあると思う。あなたが輝く場所は地域社会の中にあるかもしれない。それが今なのね。東北に行きなさい」
という言葉を頂き、今まで一歩を踏み出せなかった私に、お二人からその一歩を踏み出すための大きな勇気と心強い後押しを頂きました。
その後、東京から復興支援ボランティアに時々通わせて頂いておりましたが、今から2年前の2014年7月、長年勤めた仕事を辞めて仙台を拠点としてのボランティア活動が本格的に始まりました。
仙台の復興支援の仲間に温かく加えて頂き、宮城県石巻市、南三陸町、名取市、そして美田園町などで活動させて頂き、現在、約2年がたとうとしています。
私は“お茶っこ”活動をしながら華道や趣味の手芸等を通して、被災された方々のお話とお心を聞かせて頂き、その心にできる限り寄り添う努力をさせて頂き、今日に至っています。
私は今、本当に幸せです。たとえどんなに微力ではあっても、人のさまのためにさせて頂ける有り難さをしみじみと思います。
しかし、被災地の現実を見れば、まだまだ課題が山積し、新たな問題も発生してきています。例えば、仮設住宅から復興住宅に移ったことで、仮設住宅の中で苦楽を共にしながら培われてきたコミュニティが崩壊してしまっていることです。仮設住宅に残られている方も、復興住宅に移られた方も、それぞれが心と心のつながりを失い、今、まさに“孤独”に苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。私は「物」と「心」が一体となった支援、とりわけ“こころの支援”がとても大切であると思っています。これからが勝負であり、正念場だと思っています。
かつて、立正佼成会の開祖である庭野日敬先生から、
「地域で十人に一人、“人さまのため、世の中のため”にという心を持ち、行動する人がいれば、必ず地域、社会、国家は明るくなっていくのです」
と教えて頂きました。「支援する側」あるいは「支援される側」という関係ではなく、私を必要としてくれる場所で《少しでも明るく、心豊かに生活していけるよう》、共に力を合わせ、支え合いながら生きていくことができたら、もっと幸せです。
振り返れば今まで多くの方々に支えられて、今の私がいます。現在もかつての立正佼成会の仲間が、東京から電話や手紙でいつも励まし、応援してくれています。
今度は私が微力ながら、皆さまの“よりよく生きる”お手伝いをさせて頂きたいと思います。それも肩肘を張ることなく、自然な気持ち、自然体で、心を共にする仲間の皆さんと被災された方々の支援をこれからも続けていきたいと願ってやみません。